決戦憲法関ヶ原歴史編のblog

「東京裁判史観」「ホイッグ史観」「原罪史観」を超えて未来へ・・・。 歴史を裁くのは「世界史の法廷」(ヘーゲル)だけである。

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 加藤陽子氏は『戦争まで』の中で、一九四一年七月二日の御前会議で決定された「帝国国策要綱」をとりあげ、次のように述べている。
「この日の決定の内容について、教科書や年表でどのように説明されているかといえば、対ソ戦を準備する一方、対英米戦争をも辞さない、というもので、北進と南進の両方を狙ったもの、と説明されることがおおいです。」(p374)と述べ、続けて「情勢の推移に応じ北方問題を解決」「大東亜共栄圏を建設し、もって世界平和の確立に寄与」するとの二つの方針を確認し、「対英米戦を辞せず」の文言が要領の中の言葉として出て来ると書いている。しかし、加藤氏は、「七月二日の決定」が英米戦、あるいは対ソ戦も意図していた、即ち日本にとって「引き返し不能点」なのだと思うかもしれないが、実は違うのだと述べる。つまり氏は、「対英米戦を辞せず」という言葉は、海軍軍令部などが、北進論を唱える松岡外相や陸軍参謀本部を押さえるためだったと主張する。(p376)
 ここで、七月二日の「帝国国策要綱」に戻れば、「大東亜共栄圏を建設し、もって世界平和の確立に寄与」するという方針こそ「南進論」であり、その帰結が「対英米戦」であったことは明らかである。ところが、加藤氏は、この「大東亜共栄圏」なるものが、一体、どのような人々によって唱えられたものであるか、については何も語っていない。※加藤氏に限らず、日本の近現代史家は、「大東亜共栄圏」とはいったい何だったのか、を真正面から考察の対象とすることを避けているように思われる。余程都合の悪いことがあるのに違いない
 さて、いったい、「大東亜共栄圏」なるものは、どのような人々によって何のために作り出された思想なのだろうか。今回、こうした私の問いに正面から答えてくれる雑誌が冒頭に掲げた『季刊 東亜政治と東亜経済』(中央公論社)である。昭和一六年七月に刊行された同誌は、「東亜共栄圏の諸問題」を特集している。この雑誌が刊行された昭和一六年七月は、独ソ戦が勃発し、松岡外相や陸軍による北進論が盛んな時期でもあったというのは、偶然とは言えない。
 この雑誌の「刊行の辞」が最後の方に載っているので紹介しておこう。
 「今次聖戦の目的は東亜新秩序の建設、東亜共栄圏の確立にありといはれる。」「聖戦完遂こそは現代日本に課せられた世界史的使命達成の前提条件である。」「新東亜建設の大業は長期、悠遠なる規模のものであり、今はその発足の過程にあつて、その礎石をおきつゝある歴史的な時期である。その基礎構築の強靱適確の度合が東亜の歴史の志向並に進行を如何に規定するか、誠に重大である。それ故にまた、科学的な東亜認識と東亜問題に対する総合的科学的研究とが喫緊の要請となつている。」「然るにも拘らず、かかる要請を充たし得る総合的な研究資料刊行物の如何に少なきことか。」「ここに於て小社は識者の熾烈なる欲求に応るため、「東亜政治と東亜経済」(季刊)の刊行を企図し、その罅隙の一部を埋めんとするものである。」(p224)
 これを素直に読めば、東亜新秩序の確立=新東亜建設=聖戦が現代日本に課せられた使命であるというものであり、この目的の達成のためには「科学的東亜認識と東亜問題に対する総合的科学的研究が」緊要であるというように、南進論=「大東亜共栄圏」を強く後押しするものとなっている。
 このことを念頭に、目次を見てみることにしよう。

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 この目次から、執筆者とその内容を概観してみよう。
 巻頭論文として、蠟山政道の「世界政治と東亜共栄圏の新しき地位」が掲載されている。蠟山政道は、日本を代表する政治学者であり、一九三九年の平賀粛学に反発し、東京帝大を辞職したリベラリストでもある。
 次に「東亜共栄圏農業問題」と題して、四名の研究論文が掲載されている。
 A論文の執筆者は、東畑精一である。東畑もまた日本を代表する経済学者である。中山伊知郎とともにシュンペーターに学び、帰国後は、昭和研究会の設立にも関わった経歴を持つ、日本の近代経済学の第一人者である。
 B論文の鈴木小兵衛は、満鉄調査部に勤務する農村調査を専門とする所謂「左翼前歴者」である。この論文執筆後は、「合作者事件」で検挙されている。
 C論文の大上末広満鉄調査部員である。昭和一八年九月の「第一次満鉄調査部事件」で検挙され、その後獄中で死亡している。
 D論文の伊藤律は、著名な共産党員である。満鉄調査室に勤務し、昭和一六年九月に検挙されている。終戦後は、共産党「所感派」に属し、徳田球一の亡命先の中国へ渡る。伊藤は、所謂ゾルゲ事件に関わり、ゾルゲや尾崎を密告した当局のスパイの汚名を着せられていた人物でもある。
 次の「東亜資源論」は、著名な経済学者であり政治家でもあった蜷川虎三である。一九五〇年から一九七八年まで社共の推薦で京都府知事をつとめている。
 そして、「東亜共栄圏の民族問題」の執筆者である細川嘉六は、ジャーナリストであり、またマルクスの研究者でもある。戦後は、日本共産党の参議院議員として活動している。昭和一七年の「横浜事件」で検挙されている。
 以上のことから、「大東亜共栄圏」=南進論を学問的に基礎づけたのは、蠟山、東畑、蜷川などのアカデミズムを代表する革新派の学者や鈴木、大上、伊藤律、細川などの満鉄調査部内のマルクス主義者及びそれと何らかの関わりのある在野の研究者であったことが分かる※詳しい論証はまだだが、この時期の「改造」「中央公論」「文芸春秋」などの論調、朝日・毎日・読売新聞をはじめとする大新聞も同様の傾向が窺える
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 上の画像は、平野義太郎・清野謙次共著の『太平洋の民族=政治学』(日本評論社、昭和17年2月刊)と、土屋喬雄著『日本国防国家の史的考察』(科学主義工業社、昭和17年1月刊)である。平野義太郎といえば講座派マルクス主義、土屋喬雄といえば労農派マルクス主義の代表的論客として日本資本主義をめぐって論を戦わせた学者達である。
 平野義太郎は、『太平洋の民族=政治学』の序文で次のように述べている。
「われわれは今、大東亜共栄圏の建設に邁進しつつあるが、この大東亜共栄圏の建設といふ政治活動は日本を盟主とし太平洋圏内の諸民族を積極的に協力せしめることにより、自給自足の広域経済を確立し、従来米英帝国主義の壟断のために妨げられて来た諸資源を開発すると共に、米英の国際的侵冠に対しては、軍事的に共同防衛し、従来、米英等の搾取対象であつた諸民族を米英等の経済的には有無相通じ、又、地域的に近接するわれら兄弟諸民族が善隣友好し、精神的にも文化的にも、相契合し、東亞を興隆せしめることを根本理念とする。」(P1)
 つまり、「大東亜共栄圏の建設」という聖戦へと日本を向かわせた勢力は、所謂右翼と一線を画す「革新派」・「マルクス主義者とその転向者(偽装転向者も含む)」ということになる。
 これは、以前このブログでも取り上げたが(「加藤陽子氏「戦争まで」を読む スパイ尾崎の「評価」を巡って⑦⑧」を参照されたし)加藤陽子氏が盛んに持ち上げている尾崎秀実は、『改造』昭和一六年一一月号に「大戦を最後まで戦ひ抜くために」と題する次のような論文を寄せている。
 「当局は日本国民率ゐて第二次世界大戦を戦ひ切る、勝ち抜けるといふ大きな目標に沿ふて動揺することなからんことである。日米外交折衝もまたかゝる目的のための一経過として役立たしめた場合にのみ意味があるものといひ得る。又今日日本には依然として支那問題を局部的にのみ取扱はんとする見解が存在がしてゐる。これは世界戦争の最終的解決の日まで片付き得ない性質のものであると観念すべきものであらう。私見では第二次世界戦争は「世界最終戦」であらうとひそかに信じてゐる。この最終戦を戦ひ抜くために国民を領導することこそ今日以後の戦国政治家の任務であらねばならない。」(『尾崎秀実時評集』東洋文庫、平凡社、p407~408)
 ※私は「コミンテルン陰謀説」に与するものではないが、尾崎のこのような言説の意図は、日本を対ソ戦ではなく対英米戦の「聖戦」へと向かわせようとするところにあったのは疑いない。 
 さて、軍内部で北進か南進かで揺れるこの時期にマルクス主義者たちは、何故に「大東亜共栄圏論」を高唱するに至ったのか?※「東亞共栄圏」という言葉自体は松岡洋右が最初に使ったとされているが言うまでもなく、「大東亜共栄圏」とは、対英米戦争によってアジアの植民地を解放するという「聖戦」によって勝ち取られるべきものであり、従って、「南進」を後押しするものであったことは自明である。伊藤律や細川嘉六などの明らかなマルクス主義者が、「東亜共栄圏」構想を強く打ち出したのは、ナチスドイツによる対ソ攻撃に乗じて日本がソ連を挟撃する「北進」を阻止する意図が込められていたと考えるのが至当であろう。つまり、「大東亜共栄圏」論は、少なくとも対ソ戦を阻止するために役立ったのである。別の角度から見れば、なぜ、当時の日本が「大東亜戦争」へと向かったのかといえば、日本が右傾化したからではなく、左傾化したからだともいえるのである。
 加藤陽子氏は、なぜこうした事実を無視するのだろうか?確かにこうした事実を取り上げることは、加藤氏にとっても、また、加藤氏の身内の「左翼」アカデミズム界にとって都合の悪いことではある

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 「ラジオ放送が集団的に受容されえた状況も、蓄積される書籍より読み捨てられる雑誌と似ている。テープレコーダーなど録音装置がまだ普及していない一九三〇年代は、ラジオの流動的な特性が突出した時代であった。それは社会システムの編成替えを政治コミュ二ケーションにおいて促し、伝統的権威や合理性による支配に対してカリスマの優位を生み出した。ラジオと政治の関係が問題となるとき、ヒトラー、ローズヴェルトというカリスマ的指導者や「玉音」放送が想起されるゆえんである。」『キングの時代』(p244)「というのも、ラジオは発話内容(記号)のみならずそれを包む肉声(印象)を伝達するため、印刷メディアよりも情緒的に機能した。大衆社会では指導者が何を話したかでなく、どう話したかが重要になる。」佐藤氏は、このように述べ、ローズベルトのプロパガンダ放送は「炉辺談話」と呼ばれ、ヒトラーのプロパガンダ放送は「獅子吼」と形容されたという例をあげる。
 ※但し、私は、佐藤氏のローズベルトとヒトラーの放送演説を「玉音放送」と同一視する見方には賛成できない。なぜなら、「玉音放送」は、ローズベルトやヒトラーと対極に位置する「伝統的権威」そのものであるからである。
 更に佐藤氏は、『増補改訂 戦争 ラジオ 記憶』(勉誠出版)所収の論攷において、「ラジオというメディアの黄金時代は、一九三〇年代 「ファシズムの時代」と四〇年代「総力戦の時代」にすっぽりと重なる。」(p2)「それゆえ、ラジオ研究の多くが広義のファシズム研究や総力戦研究であったことは当然というべきだろう。」と述べる。
 そして、佐藤氏は、ハーバーマスの「ブルジョア的公共性(圏)」との対比で「ファシスト的公共性(圏)」を次のように定義づける。即ち、ファシスト的公共性(圏)」とは、「大衆が運動の中に「参加」と「自由」を感じる社会関係(空間)である。」「総力戦体制の枠組みにおいて、ファシズムは国民主義ナショナリズムの一理念型と考えることができる。つまり、それはイタリアのファシズム、ドイツのナチズム、日本の大政翼賛体制等の枢軸国ばかりを指すのみならず、アメリカのニューディールもイギリスの挙国一致体制もソビエトのスターリニズムも、等しくファシスト的公共圏において、ラジオ放送を利用して国民的合意を調達したと考えるべきだろうメディア研究の発展から考察した場合、ニューディール民主主義の世論形成とファシズム運動の世論形成に本質的な相違は存在しないのである。」(p16~17)
 ※ここで、断っておくが、私は、佐藤氏の言説に全面的に賛成しているわけではない。特に、イタリア「ファシズム」とドイツ「ナチズム」と日本の東條内閣との本質的な相違は、イタリアやドイツは「主権独裁」体制であったが、日本の戦時内閣は英国のチャーチル政権と同様に憲法体制の例外的体制である「立憲独裁」というところにあったと考える。その上で、佐藤氏の見解の延長線上で言うならば、「近衛内閣」の「新体制」が、三つの全体主義(ナチズム・コンミュニズム・ニューディール)の混合体制を目指したものであったということができる。
 本題に入る前に、『増補改訂 戦争 ラジオ 記憶』所収の佐藤氏の論攷から、特に日本語の次の言用語の起源についての記述に注目しておきたい。

 <放送>ー第1次世界大戦に起源がある。「無線通信は一八九五年マルコニーの発明以後、日本ではもっぱら船舶通信として活用されていた。「放送」という訳語の公文書初出は、大戦中の一九一七年一月インド洋航行中の三島丸が「ドイツの仮装巡洋艦に警戒せよ」と発信不明の「送りっ放し」の電波を傍受し「放送を受信」と記載した通信記録の報告書であった。(P5)
 <マスメディア>ー第1次大戦後のラジオ放送開始以後、「マス・メディアの成立」として論じられるが、「大衆」マスも「メディア」もそれ自体、この時代に登場した新しい概念である。即ち「媒介物や中間物を示す「メディア」mediaという言葉が、その単数形「ミディウム」mediumと大衆massを結びつけた新造語「マス・ミディウム」としてアメリカで使用されたのは」1923年のアメリカの広告業界紙『広告と販売』においてであった。(p8)
 <強制的同一化>ーナチズムを特徴づける「強制的同一化」Gleichschaltungは、本来はラジオ等の計器類を同調させるglieichschalten」際に使われていた技術用語である。(p14)
 <マス・コミュニケーション>ーこの新造語は、1939年9月のナチスドイツのポーランド侵攻直後に開催された「ロックフェラー・コミュニケーション・セミナー」への招待状において初めて使用された。ロックフェラー財団は、平和主義の世論を前に対独参戦に踏み切れないアメリカ政府に代わって戦時動員研究を代行していた。(p20~21)

 さて、本題に入ろう。日本に国家総力戦体制が整備されたのは第一次近衛内閣の時であるが、「放送総力戦体制」もまた同時に形成されたと考え得る。以下、近衛内閣による日本の「総力戦体制」化を時系列にしてみる。

 昭和11年
 1月 新聞連合社をもとに同盟通信社が誕生。6月 同盟通信社が日本電報通信社の通信部門を吸収
 2月 二・二六事件
 昭和12年
 6月 第一次近衛内閣成立
 7月 盧溝橋事件勃発
 9月 国民精神総動員実施要綱
   内閣情報委員会が内閣情報部へと改組される
 10月 企画院設置
 12月 南京占領
 昭和13年
 1月 「国民政府を相手にせず」声明
    厚生省設置
 3月 国家総動員法成立
 11月 近衛首相「東亞新秩序建設方針」声明
 昭和14年
 1月 近衛内閣総辞職

 ここで特筆すべきは、三点ある。一点目は、「企画院」「国家総動員法」など、総力戦に必要な体制が第一次近衛内閣 において構築されたこと※ある意味では「厚生省」も総力戦体制の一つとも言える。
 二点目は、こうした総力戦体制の形成が、対外戦争(日中戦争)と国内革新運動(新体制運動)がセットになって推進されたこと
 三点目は、こうした日本の総力戦体制(軍国主義化)が、軍人内閣ではなく、他ならぬ近衛という文民内閣において実現されたこと
 
 以上を念頭に、「同盟通信社」が誕生(昭和11年)した意味(意義)をまとめると次の諸点が挙げられる。
 ①新聞社とラジオ放送へのニュース配信が一元化されたこと。
 ②英国のロイター、米国のAP、ソ連のタスなど主要な通信社と肩を並べる日本の通信社が誕生したこと。
 ③それまで競合関係にあった「電通」が広告専門の会社となり、通信社「同盟」との棲み分けができたこと。
 ④日本の立場を国外に向けて発信する発信拠点ができたこと。
などが挙げられる。
 
 次に政府内に設けられた「内閣情報部」の役割は、佐藤卓己著『キングの時代』(p319~320)によれば次の諸点が挙げられる。
 ①政府内の関係各省の連絡調整
 ②同盟通信社の監督
 ③各省庁以外の情報収集
 ④報道及び啓発宣伝(世論形成)    

 佐藤氏によれば、「この内閣情報部時代に、戦後に連続するメディア体制が整理統合の名のもとに急速に構築された。」(p321)という。
 ここからは、私の考えである。1930年代に形成された「ラジオのファシスト的公共性」を始めとする放送・メディアの総力戦体制は、戦後、ラジオがテレビに代わり、「同盟通信社」が「共同通信社」に代わり、思想のベクトルが戦時下とは真逆になっただけで、今日迄継続されている。その根幹をなすものがGHQ下で制定された「放送法」「電波法」等であり、また「ウオー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」(歴史認識)にあると考えるのである。※現在の「放送法」は、ラジオ受信機の設置が同時に受信契約の成立と同義と見なされた(一世帯にラジオ受信機一台)戦前の受信料徴収システムを踏襲している。 


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 リング上の「茶番劇」(朝ドラ・エール)に腹を据えかねて、リング上にデストロイヤー乱入。
 自分の作曲した軍歌で多くの兵隊さんの命が失われた。その悔恨のため、一年半も曲が書けなくなったって?嘘だ!古関祐而は、一ヶ月半後には、放送局(つまりNHK)の依頼で菊田一夫のラジオドラマの曲を手がけている。曲が書けなかったのは、軍歌への悔恨や反省からではなく、食糧確保に忙しかったからだ。それにしても、この時代の日本人は、逞しい。
 それにしても何度も言うが、この安っぽい、嘘に満ちたご都合主義の反戦ドラマには、「ラジオ放送」が全く登場しない!おかしい?怪しい?NHKにとって、「大東亜戦争」下のラジオ放送には、よっぽど疚しいことがあるに違いないと勘ぐりたくなる。そこで、「大東亜戦争」下のラジオ放送を調べてみた。
 冒頭の写真は、当時、日本放送出版協会から発売されていたラジオ放送の月刊誌である。これを見れば、当時、どんな放送がされていたか、一目で分かる。

 右側の雑誌「放送」は、昭和17年9月号である。表紙の写真には、旭日旗が翻っていて、なんとも勇ましい。放送内容を見てみよう。

 〇7月27日放送 「作戦に必勝、建設に必成 今ぞ大追撃戦の秋」内閣総理大臣 東條英機
  東條首相の演説が掲載されている。演説は、①「重慶断じて許さず」②「アジヤの回教民族」③「帝国の勝利は不動」④「国民生活を確保」の4点に亘っている。ここでは、①に限って簡単に内容を紹介しておこう。即ちー重慶・蒋介石政権覆滅戦において、敵に大打撃を与えている。また、汪精衛を主席とする南京政府は、我が国の支援と協力の下、着々と成果を挙げている。これに引き替え、重慶政権の抗戦力は、格段に低下している。云々。

 〇7月31日放送 「空から見た南方戦線」企画院第六部第一課長 大久保武雄
 「企画院」とは、昭和13年に設置された総力戦経済=人や物の動きを計画立案する「綜合国策機関」である。大久保課長は、鈴木企画院総裁に随行し、航空機で南方戦線を視察し、「大東亜共栄圏」の建設の意義を語っている。

 〇7月25日放送 「加藤建夫少将を偲ぶ」陸軍中将 河辺虎四郎
  7月22日に戦死した加藤健夫の死を悼み、その功績を称える放送である。加藤健夫については、「エンジンの音轟々と・・・」で始まる軍歌や「加藤隼戦闘隊」として映画にもなった。※私が視たのは、佐藤充主演の「あゝ陸軍隼戦闘隊」の方だが。 

 〇7月9日~11日放送 「伝統と創造」津久井龍雄
  ・戦争の最後の勝敗を決定する要素は、国民が一致して必勝の信念を失わず、最後まで戦い抜くことが最も肝要である。・我々日本人が今、全身全霊を打ち込んでいる「東亞の建設」ということは、日本の発展の新段階を示している。・東亞新秩序の精神とは、「一つの神、一つの真理、一つの団結」という日本伝統の観念である。

 〇7月16日~17日放送 「思想戦を戦ふ」野村重臣
 簡単に小見出しのみ列挙する。「勝利の秘訣は世界観の統一」「内より蝕む第五列の恐怖」「日本もかつて思想戦に敗る」「日本の戦争は本来が思想戦」「米英を恐れた非国民的論議」※「非国民」という言葉を広めたのはラジオではなかったのか?「急務中の急務 皇道文化確立」

 〇7月20日放送 「海を護る心」海軍報道班員 石川達三
 石川達三は、以下のような報告している。
 「大東亜戦争がはじまってから、わが海軍が世界に比類無き大戦果をあげてゐる。」との書き出しに始まって「その大勝利の原因はどこにあるか」と問い、その根本には「海軍魂」があると語っている。続けて石川は、米軍の空母レキシントンを撃沈した潜水艦の艦長に会って聞いた話として、ある兵曹の美談を紹介している。
 この兵曹は、壊血病にかかって、自分一人では起き上がることも出来なくなった。艦長が見るに見かねて、「艦長室へいって寝ておれ」と言うと、兵曹は涙を流して「艦長、私をこの魚雷の傍で死なして下さい。それで本望です。」と言った。艦長は、彼の希望通りに魚雷の傍で死なせてやるのが本当の武士の情けといふものではないか、と思い命令を撤回した。すると兵曹長は瀕死の姿で、最後の瞬間まで魚雷の調節を繰り返しながら息を引きとった・・・。 
 ※ところで、この石川達三は、「生きている兵隊」で、日本軍の残虐行為を書き(嘘か本当か分からないが)、発禁処分を受けた人物である。戦時中は、こうした戦意昂揚ルポルタージュで儲け、戦後は戦前の発禁処分を一種の「勲章」として儲けるという、石川のような卑怯な作家を私は許せないのだが・・・。

 さて、雑誌「放送」には、番組の放送番組時刻表が掲載されている。これを見ると、朝から夜まで浴びせかけられるラジオ放送によって家庭の主婦も含めて、日本国民全員が、戦争に「総動員」されていたことが分かる。ところで、この番組の中に、午後6時から放送されていた「少国民の時間」という子供向けの番組に注目してみよう。9月の番組紹介記事のいくつかを紹介しよう。
 
 ★今月は二十日が航空記念日に当たりますので、空に因む勇ましい話「空の進軍ラッパ」や少国民の空への憧れを表した「大空をめざす少年たち」等をお送りします。
 ★南と北と言へば皇軍の活躍ぶりは全く地球も狭しといふ感じですね。皆さんも毎日のニュースを聴き乍ら世界地図や地球儀で大東亜の各地を探していらっしゃるでせう。大東亜に関する放送としてマレーの伝説に材料をとった「ドリアン姫の冒険」といふ興味ある劇をお送りします。
 ★歌と言へば今月の「歌のけいこ」は皆さんの中にも御存知の方もあるでせうが「日本の足音」といふ力強い歌をおけいこすることにしました。

 以上が雑誌「放送」昭和17年9月号から分かるラジオの戦争放送の概要である。続けて「放送」昭和18年1月号の内容も紹介したいところだが、目次をご覧いただくだけでお許しいただきたい。
 ここで、私は考える。朝ドラ「エール」では、主人公裕一が、自分が作曲した軍歌のせいで沢山の兵士の命が失われたと悔やむ場面がある。では、上記のようなラジオの戦争放送で一体どれだけの人命が失われたのか?仮に裕一の軍歌を1とするならば、ラジオ放送は、その何万倍、何十万倍もの命を奪ったことになる。ん・・・?何・・・?「いや、当時のラジオ放送は、軍に逆らえなかった」「時の政府の意のままに放送せざるを得なかった」「特高が眼をひからせていた」・・・なるほどなるほど。たんと言い訳するがいいさ!
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 ー満州国の絵はがきー

 NHKのテレビ番組を見ると、日曜の朝などに、中国残留孤児のドキュメンタリーなどが放映されている。また、過去には、七三一部隊や満蒙開拓団の集団自決などを扱った番組などが放映されていた記憶がある。
 では、いったい、昭和12~13年頃のラジオは、「満州国」についてどんな報道をしていたのか、気になるところである。

 昭和12年
 ①9月15日「日満議定書締結五周年」(『放送ニュース解説9』p29~31)
 ②11月5日「満州国の治外法権撤廃」(『放送ニュース解説3』p14~15)
 ③11月30日「国家の承認と政府の承認」(『放送ニュース解説6』p8~P10)
 昭和13年
 ④3月1日「盟邦満州国の目覚ましい発展」(『放送ニュース解説17』p8~10)
 ⑤3月2日「日満両国の経済不可分関係」(『放送ニュース解説17』p10~12)
 ⑥5月4日「大陸開拓の戦士満州青年移民」(『放送ニュース解説23』P12~14)
 ⑦8月15日「満州農業移民と花嫁移民」(『放送ニュース解説33』P15~16)
 ⑧8月23日「満州帝国協和会の活動」(『放送ニュース解説34』P12~14) 

 さて、簡単に放送内容を紹介していこう。
 まず、昭和12年9月15日放送の①「日満議定書締結五周年」では、昭和7年9月15日に「日満議定書締結」から五周年の記念を祝賀会が催されたこと。満州事変が勃発してから「我が皇軍の威力と銃後の熱誠とに依って、満州国の治安は快復し民心は安定し、満州国在住の三千万民衆はかの暴虐なる支那の絆から離れて新国家の建設着手し」たことが述べられている。翌年、「 満州国建国宣言が発せられて、東亞に輝かしい国家の誕生を見るに至った。」「我国と満州国とは緊密不可分の肉親のやうな関係になった」「満州国は民族協和の旗識を掲げ王道楽土の建設を理想とし治安の快復に、国民生活の向上に、或は文教の新興に政治経済の整備発達に、着々として健全な発達をとげた」と美辞麗句が並ぶ。最後に「過去五カ年に於ける満州国の異常な発展を見る事は非常に頼もしく、両国は愈々不可分関係を強化して東亜に雄飛するのである。」と結んでいる。
 
 ②「満州国の治外法権撤廃」では、満州国内に日本が持っていた「治外法権」を全般的に撤廃することになったこと。即ち「満州国」は、日本の植民地ではなく、独立国となったことをアピールしている。

 ③「国家の承認と政府の承認」では、この度、日独防共協定に参加することになったイタリアが、満州国を正式承認したことの意義を伝えている。併せて、国家を承認する方法として、明示的な承認と黙示的な承認とがあること。また、政府の承認は、国家の承認とはその意義内容は違うが、「承認の効果が遡及的なことは国家の承認の場合と同じである。」等と述べている。

 昭和13年3月1日の放送では、④「盟邦満州国の目覚ましい発展」が伝えられ、翌3月2日の放送では、⑤「日満両国の経済不可分関係」が論じられている。

 5月4日放送の⑥「大陸開拓の戦士満州青年移民」では、満蒙開拓の若々しい希望に燃えて、故国日本を出発した五千名の満州青年移民(青少年義勇隊)は、無事に満州に到着し、開拓農民としての農業技術等を身に付けるための訓練所に入ったというニュースが伝えられる。
 三カ年の訓練を受けた青少年達(16歳~19歳)は、約一千円の補助金と十町歩(10h)の耕地と数町歩の放牧地の分譲を受けることになるという。なお、この青少年義勇隊を募集したところ、五千名の定員に僅か一ヶ月で一万人の応募者があったという。
 これに続けて、「今や我が大和民族は、建国以来の大理想である八紘一宇の皇道を四海を宣布し、諸民族を徳化し、誘棭して正しい平和を確立しようとする一大発展に際会してゐるのであつて、島国日本は今や大陸日本に躍進しつつあるのである。」などと述べている。

 8月15日の放送の⑦「満州農業移民と花嫁移民」では、昭和7年から開始された満州移民団が入植戸数1794戸、人口約1万5百人になったことを述べる。また、移民団に対する政府の手厚い補助がなされていることを伝えている。
 更に「満州国に立派な村を建設するには、優秀な花嫁移民が必要である。」「純心な青少年移民は、現地で猛烈な訓練を行ってゐるので、立派な花嫁移民を作ると言ふことが大切になって来たのである。」「今迄の日本の海外発展が成功しなかった大きな原因は、婦人の協力を得なかったことにあるので、優秀な婦人の協力が必要なのである。其処で内地府県に花嫁移民の鍛錬所を設けることになったのである。」

 当時の「満州国」の実態については、今日、左から右まで、実に様々な語られ方がなされている。特に、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍によって引き起こされた集団自決や悲惨な引き揚げ体験から来るマイナスのイメージが先行しがちである。ここでは、結果としてのそうしたマイナスイメージに囚われることなく、あくまでも当時のラジオ報道によって国民に定着していたイメージはどうだったのか?
 そのラジオ報道イメージをまとめると以下の諸点に集約される。

 ①満州国は、日本の傀儡国家、或いは植民地などではなく、国際的にも承認された独立国家である。
 ②満州国は、建国以来、短期間に目覚ましい経済発展を遂げている。
 ③満州国は、日本と一体の経済不可分の関係を築いている。
 ④満州国へは、国の手厚い支援政策の下で、開拓の理想に燃える多くの若者の移民が入植している。
 ⑤満州国への移民は、女性の協力が不可欠であり、優秀な花嫁移民を募集している。

 要するに当時のラジオ報道が伝えた「満州国」のイメージは、正に「王道楽土」であったということができる。
 さて、今日のNHKが伝える「満州国」のイメージは、「悲惨な引き揚げ体験」「集団自決」「残留孤児」「731部隊」「柳条湖の謀略」・・・など、戦前のラジオ報道とはポジとネガを反転させたような、正反対の暗黒のイメージが作り上げられている
 このことを私たちはどう考えたら良いのだろうか?「集団自決」「残留孤児」「悲惨な引き揚げ体験」など、NHKの番組は、ー当時の日本が多くの開拓移民を満州に送った国の責任を問うているようにも思える。だがこの問題を国策の誤りとしてのみ捉えて良いのだろうか?当時のラジオ報道によって満州に渡った「開拓移民」も少なくないと考えるのが当たり前ではないのだろうか?
 つまり、「集団自決」「残留孤児」・・・といった番組を放映するなら、同時にNHKは、当時のラジオ放送は、どのように満州移民を送り出していたかを解明するべきではないのだろうか。ここに、NHKの「戦後責任」が問われる問題が横たわっていると私は考える。

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 さて、場外乱闘はこのくらいにして、再びリング上に戻ることにしよう。
 現在、中国共産党の独裁政権下では、内モンゴル自治区のモンゴル人に対して、モンゴル語を取り上げ、中国語が強制されるなど、モンゴル民族は衰亡の危機にたたされている。揚海英氏によると、かの文化大革命時代、内モンゴル人にたいして、大規模なジェノサイドが加えられた生々しい報告がなされている。※揚海英氏による報告書は、分厚いもので、モンゴルの人々に対する強姦・拷問・虐殺の事例が多数記述されている。写真は第8集である。私の考えでは、中国のこうした非人間的行為の源流を「通州事件」に見出すことができる。ただ、この事は、中国共産党=毛沢東主義固有のものなのか、それとも、「アジア的停滞」(ヘーゲル・マルクス)によるものなのかは、検討の余地がある。
 実は、日中戦争期に、日本はこの内モンゴルに対して独立を支援していたことが、ラジオの「ニュース解説」から分かる。以下、概要を紹介しよう。
 
 「蒙古軍と徳王」昭和12年8月25日(「放送ニュース解説8」p51~53)

 徳王の率ひる内蒙古軍は察北(チャハル省の北部地域)於て、張北を中心にこの方面へ進出して来た支那中央軍並に共産軍に対し攻撃を開始し、日本空軍の空爆の支援もあってこれを撃退した。

 蒙古民族は、これまで南京政府によって非常な圧迫を受け、このままでは滅亡の道を辿る外ない状態にまでなった。そこで徳王は、蒙古民族の復興のために決然として起ちあがり、昭和八年頃から蒙古民族の自治運動は起こされたのだった

 徳王は、蒙古王族の出で幼時から北平天津に留学し、世界の大勢に通じた蒙古人中の知識である。惨めな生活を送っている蒙古民族を救うことこそ自己に与えられた使命であると自覚した徳王は、如何なる方法によることが真の道かを考察した。結論は、外蒙古の民衆がソ連によって極めて悲惨な状態におかれているという事実を見聞し、また、満州国の躍進ぶりを目にし、共産党を排撃して蒙古民族による自治以外に方法はないという結論に至った。かくして民族自救のために起き上がった徳王は、蒙古軍政府を樹立することとなった。

 この蒙古軍政府にあって徳王を助け、軍の大将たる人が李守信である。この李守信も生粋の蒙古人で徳王が政治外交の手腕に秀でているのに対して、李守信は軍事に卓越した手腕を示し全軍の信望をその一身に集めている。

 今や蒙古人は自らの力に信頼し着々発展の途を辿っている。かつて時代を席巻したヂンギスカンの血は今もこの民族の中に脈々と流れている。我々大和民族と多くの点に於いて似通った特質を持つ蒙古民族の将来、並びに蒙古自治運動の将来こそはけだし注目すべきものがあろう。

 「新興途上に在る満疆地方」昭和13年6月28日放送(「放送ニュース解説29」p3~5) 
 
 昨年秋、蒙古三百万民衆の総意に基づいて成立した、蒙古連盟自治政府は、その後政治に経済に、各方面に亘って驚異的な躍進をつづけている。その政府主席は、雲王が逝去して以来空席となっていたが、来る七月一日に蒙古大会を開いて後任主席を推戴することになった。後任主席には現副主席の徳王が推戴され、副主席には現総司令李守信将軍が推されることになっている

 事変をきっかけとして内蒙復古運動は完全に実を結び、今や内蒙古は全く面目を一新して、驚異的躍進をつづけている。

 蒙彊三自治政府(察南・晋北・蒙古)は、利害関係を同じくし、共同の目的を達成するため、金融、産業、交通の三つの委員会を以つて彊連合委員会が組織されている

 こうした事実は、今の日本人にはあまり知られてはいない。もちろん、NHKを始めは、日本のテレビは一切取り上げようとしない。日中戦争期の歴史の見直しが必要ではないか



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 今回のブログは、プロレスで言えば、リング上の戦いではなく、リング下の場外乱闘である。NHKの朝ドラ「エール」を見て、無性に腹が立ったので場外乱闘に及んだ次第である。ドラマでは、主人公裕一に向かって元弟子(戦時中にしては太りすぎだと思うが)や友人から「軍歌はつくるな」「歌を戦争の道具にするな」など、安っぽい反戦の言葉がぶつけられる。不思議なことに、今回の「エール」に限らず、NHKの朝ドラには、ラジオがほとんど登場しない。登場するのは、たまたまラジオのスイッチをひねると、タイミングよく「大本営発表」のラジオニュースが流れるだけである。まさか一日中大本営発表を繰り返していたわけではあるまい。※当時のラジオ放送の番組を見ると、戦時下にあっても、朝五時半のニュースにはじまり、ラジオ体操、文学作品の朗読、家庭の主婦向けの料理や暮らしの知恵、演芸、幼児向けの放送、夜の音楽、演芸(浪曲・落語・義太夫など)など多彩なプログラムが組まれていた。これはいったいどうしたことだろう?
 まずは、写真のⅠ段目をご覧いただきたい。これは、「放送ニュース解説」を入手した際、冊子の中にこの「ラヂオ放送通信」(日本放送出版協会、昭和13年5月2日発行)という広告紙が挟まっていたものである。この通信には、軍歌の楽譜の販売広告が掲載されていたので、紹介させていただく。煩を厭わず全文を引用する。

         歌時代来たる
 事変以来、卑俗な流行歌は次第に姿を消し、国民歌謡がそれに代つて広まりつつあるが、これと同時に軍歌が急激に勃興してきた事変と軍歌の関係如何、などといふことは兎も角として、なんといつても軍歌は勇ましく我々の血を湧きたたせる。覚えやすく子供でも大人でも歌へるものとして軍歌は絶好のものであらう。或る小僧さんは、「軍歌を歌ってゐると思はず手。に力がはいつて面白いやうに仕事が進みます」といつて、軍歌を歌ひながら薪を割ってゐた。
 ラヂオで軍歌が放送されると、その日に楽譜の申込が来て、係員を面喰らはせでゐるが、愈々最近放送の軍歌を収録した「放送軍歌」第三集が発売された。
 これには「済南爆撃」「太原の陥落」「白苑口敵前上陸戦」「慰問袋」「提灯行列」「閘北攻撃」「上海凱旋」「勝って兜の」「南京陥落」「鬼部隊長と伝令兵」等何れもラヂオでお馴染の勇壮な軍歌が収録されてゐる。(四六倍版、定価八銭、送料三銭) 
 なほ「千人針」「北支の空」「空爆の歌」その他七曲を収めた「放送軍歌」第一集、「空軍の花」「南京空爆」「敵前上陸」其他七曲を収めた「放送軍歌」第二集発売と同時に申込殺到、忽ち品切れの有様であつたが、この度大増刷を敢行した(定価各八銭、送料二部迄三銭)※『放送軍歌』第二集は、第二段目の写真である。

 この広告文から分かったことがいくつかある。

 ①ラジオは、事変発生後から「軍歌」を盛んに放送していたこと。
 ②それだけではなく、放送した「軍歌」の楽譜を放送出版協会を通じて販売していたこと。
 ③販売した「軍歌」の楽譜は、売れ行きが好調で大増刷を敢行!?したこと。
などである。

 さて、「軍歌」の楽譜が「発売と同時に申込殺到、忽ち品切れの有様」であったというのは、いったい何を意味するのか?当時はカラオケもない時代である。家庭や学校、職場、青年団、酒場など、日本全国至るところで、ハーモニカやオルガン、ピアノなど様々な楽器の伴奏で歌われていたことを示している。即ち、日本軍の南京入城に際して、日本中の到る所で「南京陥ちぬ吾捷ちぬ 待ちにし此の日終ひに来ぬ・・・」との歌声が響いていたことは想像に難くない。
 ところで、日本放送出版協会が販売していた戦意昂揚のための歌は、軍歌だけではない。上記広告文にあるように「卑俗な歌は次第に姿を消し、国民歌謡がそれに代つて広まりつつある」との記述が見られるが、日本放送出版協会では、写真の五段目のような「国民歌謡」も大々的売り出していた。「降魔の利剣」と題する歌(土井晩翠作詞)を前面に立てた日本出版協会の「国民歌謡」の広告が掲載されていたのは、ラヂオ放送通信(昭和13年8月5日発行)である。
 その広告文では、次のような記述がされている。
 
  高らかに歌へ 国民歌謡

 盧溝橋に端を発した支那事変も既に一年有余を経過したが、蒋政権は没落に瀕し乍らも、なほ抗日を叫んで我軍に抵抗してゐる。我々はこの際、覚悟を新たにし非常時の波を乗切らねばならない。土井晩翠氏の傑作「降魔の利剣」題する歌は深海善次氏によつて勇壮に作曲され国民歌謡として放送されたが、国民精神総動員の上からいつても、この歌は全国民に薦める歌として絶好のものであろう。

 広告文では、続けて、この歌を収録した「国民歌謡」が第三十一集が発売され、「飛ぶような売行きを見せてゐる。」と書いている。
 さて、ここまでの記述で、皆さんはどう思われただろうか。「軍歌はつくるな」「歌を戦う道具にするな」「軍歌でたくさんの若者が死ぬ」・・・などの朝ドラ「エール」の登場人物のセリフは、ブーメランのようにNHK自身に向かって飛んでいくのである。

 ついでに、昭和12年から13年の日中戦争開戦時期のラジオ放送で、「戦意昂揚」を促す番組の中で、軍歌や国民歌謡以外の娯楽番組には、どのようなものがあったのか調べてみた。日本放送協会編『昭和十三年 ラヂオ年鑑』によれば、日本放送協会が「放送権を有する著作物一覧」(昭和12年4月1日~昭和13年3月迄に放送権を譲り受けた作品)を見れば分かる。内容は分からないが、日中戦争関連の番組を列挙してみる。
 ※○○の部分は、コピーが薄く、文字が読み取れませんでした。すみません。

 ラヂオドラマー「非常時風呂」「天使従軍」 立体物語ー「殊勲の軍犬」 
 浪花節ー「支那事変○○美談」「火線を守る水平」「あゝ鎮魂通州城」
 長唄ー「銃後のうた いくさの○」 琵琶ー「空襲恐るゝ勿れ」 童謡ー「子供の兵隊さん」
 唱歌ー「靖国神社招魂の歌」「靖国神社の歌」「海ゆかば」
 歌謡曲ー「空護る愛人」「空の鉄火」「黒いつばさ」
 管弦楽ー「出征の友に捧ぐる交響詩「昭和」」 漢詩「支那事変偶成千人針」   

 断っておくが、私は、ラジオ(日本放送協会)が戦時に「軍歌」や戦意昂揚のための番組を放送したことそれ自体を批判しているのではない。私が批判するのは、「軍歌の時代来る」など大仰な宣伝文句を掲げ、楽譜を大々的に売り出して儲けていた(正に「戦時ビジネス」)にも関わらず、その事には口を噤み、朝ドラ「エール」などの安っぽい「反戦ドラマ」を放映したり、「戦後補償」だの「インパール作戦の失敗」だのを流し続けるNHKのダブルスタンダードの姿勢についてである。
 
 

 

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  今回のブルログの狙いは、ラジオ放送(報道)が日本の対外・対中政策に与えた影響を考察することに主眼を置いていきたい。いったい、ラジオ放送は、日中戦争をどのように伝えていたのか。ここでは、その概要を知るため、日本放送協会発行のラジオ「ニュース解説」をとりあげ、考察していきたい。
 この「ニュース解説」こそは、日本政府の見解を代弁するものであり、また、日本国民の世論(国論)がどのような方向に導かれていったのかを読み取ることができる唯一の資料である。(例え当時のラジオ放送が国内外へ向けてのプロパガンダの側面があったとしても)併せて、当時の日本国家と国民の対外世論を形成したのが、当時のマスメディアの報道にあり、そのマスメディアの中心にラジオ放送があったのではないかという一つの仮説?を提出していきたい。
 具体的に云うならば、昭和12年7月7日の盧溝橋事件に端を発した日中間の局地的な戦闘が、「北支事変」→「上海事変」→「支那事変」と、日中全面戦争へと拡大していったのはなぜか?また、当時の近衛内閣が当初、不拡大方針をとりながら、暴支膺懲を合い言葉に、戦線を中国大陸全土へと広げざるを得なかったのは何故か?この原因が日本国民の世論の変化に起因するのではないか?という仮説である。
 さて、7月7日に起こった「盧溝橋事件」から1ヶ月もしないうちに、7月30日の北平(北京)・天津の占領に至るのだが、この一ヶ月間に絞って、「不拡大方針」から「暴支膺懲」への変化を読み取っていこう。先ずは、この1ヶ月間を時系列にまとめてみよう。なお、放送された対中戦争関連のニュース解説には、便宜上番号を振っておく。なお、ここでは、『放送ニュース解説8 第一臨時増刊』(日本放送協会)を資料として取り上げた。

 7月7日 盧溝橋事件発生
 7月11日 松井ー秦徳純 停戦協定
 ※7月11日 廬山国防会議ー周恩来と蒋介石が「抗日全面戦争」の方針を確認
 ※宋哲元率いる中国軍(第二十九軍)が10万の兵力で華北の日本軍(5,600人)を攻撃する準備

 7月11日 日本は五相会議で三個師団の北支派兵決定
 7月13日 大紅門事件ー北平(北京)の大紅門で日本軍トラックが爆破され日本兵4名が殺害される
 7月14日 日本軍騎兵の惨殺事件
 7月18日 日本軍偵察機への射撃事件
7月19日「梅津ー何協定とは」(p1)
7月20日「抗日第二十九軍の全貌」(p1~3)  
 7月20日 宛平県城内から日本軍への砲撃
7月22日「北支の時局に躍る宋哲元」(P4~5)
7月23日「支那中央軍の挑戦的行動」(p5~6)
7月24日「北支の排日団体について」(p6~7)
 7月25日 郎坊事件ー北平(北京)近郊の郎坊駅で日本軍が軍用電線を修理中に中国軍から攻撃され、応戦した事件
 7月26日 広安門事件ー北平(北京)外城広安門で起きた中国第二十九軍による日本軍へも襲撃事件
7月26日「支那軍の不信と無統制」(p9~10)
 7月28日~7月30日 日本軍による北平(北京)・天津の占領
 7月29日 通州事件ー中国保安隊による200人以上の日本人が猟奇的な方法で惨殺される
7月29日「天津と太沽塘沽、永定河」(p13~15)
7月31日「北支那とは」(p16~18) 

 以上の事件等を踏まえ、ラジオが放送した「ニュース解説」の概要を見てみよう。

 ①「梅津・何應欽協定とは」ーこれは、昭和10年、当時北平(北京)・天津一帯で頻発していた対日テロを停止する旨の日中間の協定である。この協定の骨子は「一切の中央軍の河北省撤退及び反満抗日策動の禁絶」を規定したものであり、中国側が中央軍を続々と河北省に侵入させている事態は、「梅津ー何協定」の蹂躙である。

 ②「抗日第二十九軍の全貌」ー7月7日に起きた盧溝橋事件は、北支事変の導火線となったに過ぎない。その遠因は、「多年に亙る蒋介石の排日教育、抗日思想の徹底化、昨年の西安事変を契機とした蒋介石政権と共産軍との聯携、或は北支に於ける帝国権益の排除等要するに根本的には満州の奪還を図らうとする蒋介石の真意が遂にこの事変を生むに至つたものと見ることが出来るのである。」盧溝橋における不法射撃を行った軍隊が第二十九軍である。

 ③「北支の時局に躍る宋哲元」ー「北支の時局線上に躍る最も重要な人物は宋哲元である。彼は現在、冀察政務委員会委員長であると同時に、第二十九軍の軍長でもある。」「彼は抗日の波に乗って台頭栄達した人である為、今日の如き重大な時期に於て、果たして時局収拾に任じ得るや・・・」

 ④「支那中央軍の挑戦的行動」ー「現地に於ては冀察側が既に我方の要求を承認し、和平解決に一歩を踏み出した訳であつて今やその誠意ある実行を待つだけであるが、その背後にある南京政府が依然として上述の如き挑戦的態度に出て抗日を取り締り得ざる以上、将来更に如何なる事態が発生するかも図り難く盧溝橋事件の善後処理の成否はひとり第二十九軍の誠意のみではなく、更に南京政府の態度如何によるものと見られるのである。」

 ⑤「北支の排日団体に就て
 ー右翼団体ー「藍衣社」ー中国にファッショ制度を打ち立てようとする秘密結社で、この目的のためならテロや暗殺など手段を選ばない団体である。純然たる蒋介石の私党であり一面ロシアのゲーぺーウーの様な組織を持っている。「C-C団」ー蒋介石幕下の文治派の大同団結であり、抗日思想の鼓吹に重点を置いている。
 ー左翼団体ー「学生救国連合会、民族解放先鋒隊、文化界救国連合会、婦女救国会、文芸座談会が主なもので、之等はその殆ど全部が背後に共産党及び共産青年団の息がかかつてゐるのである。」
 
 ⑥「支那軍の不信と無統制」ー今回の郎坊事件に見られるように、「部下の軍隊は盲目的に抗日に徹底して居るので、日支両代表がいろいろの取極めをしても仲々実行に移されない次第である。このやうな訳であるから支那を相手に北支事変を和平的の交渉だけで片付けて終ふことは非常に覚束ないことだといはなくてはならない。」

 ⑦「天津と太沽、塘沽、永定河」ー今回激戦が行われた天津(租界地)には、1万1千4百人の日本人居留民が暮らしている。「この租界即ち条約によつて認められた正当なる権益が不法暴戻な支那軍によつて蹂躙され攻撃を受けるに至つては、敢然皇軍が之に対して膺懲の一撃を加へたことは当然と言はねばならない。」 

 ⑧「北支とは」ー我が国では「北支那のうちの河北、チャハル、綏遠、山西、山東の五省を指して言っている。」「日本はこの地に三万数千の居留民を有して居り、列国に比べるとはるかに緊密な利害関係を持つて居るのであるから、その保護防衛は当然重大関心をよせざるを得ないのである。而も満州国が成立してからは、北支那地域が仮にも反満抗日工作の策源地となる事は由々しい大事で、我方は北支の安寧の一日も早く達成される事を希願するのである。」

 以上が、日中戦争開戦時(昭和12年7月)のラジオのニュース解説放送の概要である。ここから、次のような諸点が読み取れる。※なお、以下の諸点は、あくまでも当時のラジオニュース解説の主張に沿うならという前提であることを念のためにつけ加えておきたい。

 第一に、日本と日本軍がこの戦争に突入したのは、侵略の意図はなく、日本人居留民と既得権益の保護のための自衛戦争であった。
 第二に、当初、日本側は不拡大方針をとり、中国軍責任者と何度か停戦協定を結ぶが、中央の蒋介石政権が守る意思がなく、これを反故にするようなテロなど不法な暴力行為を行ったため、ついに「北支事変」に至った。(暴支膺懲)
 第三に、今回の戦争の根源には、蒋介石政権や中国共産党の抗日統一戦線に基づく抗日運動がある。
 第四に、この戦争に敗れれば、中国内の日本人居留民の生命や永年に亙って築き上げてきた既得権益を失うばかりか、満州国すら危うくなる。

 以上のことから、当時のラジオのニュース解説からは、「日中戦争は、必ずしも日本側の一方的な侵略ではなかった。」とは言えるのではなかろうか。尤も、そもそも、戦争の危険を冒してでも中国に多くの企業と居留民を在中させること(帝国主義?)が誤りだったのではないのか。という考えもなり立つ。だが、当時の日本政府や軍人に、中国全土から日本の企業や居留民を一挙に引き上げさせるという選択肢が取れたかは、甚だ疑問である。※トラウトマン工作などが本当に実を結ぶものとなり得たかは、未知数である。
 私は、歴史の教訓などという言葉は好きではないが、私の歴史の教訓はこうである。今日、中国には多くの居留民と企業が在中し、経済活動を行っている。しかし、中国とは尖閣諸島を巡る問題など多くの戦争の火種を抱えている。例えば、尖閣諸島で武力衝突が起きた場合、十数万の在中邦人や企業はどうなるのか。場合によっては邦人が人質となったり、テロや暴行が加えられたりするケースが多数出て来る可能性がある。そうなった場合、対中感情は極度に悪化し、「暴支膺懲」と称し、対中全面戦争へと突入する可能性がある。
 したがって、対中戦争をさけるためにも、一刻も早く在中邦人や企業を国内に引き上げるのが至当だと考えるが、如何であろうか?
 

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 毎回思うのだが、朝のNHKドラマは、酷い内容だ。特に今回の古関祐而の生涯を扱った「エール」は、酷い。何故酷いか?登場人物からして、現代の若者がタイムスリップしたドタバタコメディを繰り広げるだけで、時代背景も満州事変から日中戦争(支那事変)そして「大東亜戦争」に至る時代の臨場感が少しも伝わってこない。
 これが古関祐而の生涯をドラマ化したものである(一応フィクションだとことわってはいる)が、こんな軽薄な作り話は、日本を代表する作曲家である古関に対する冒涜であるのみならず、この時代を生きた日本人に対する冒涜ですらある。古関の自伝『鐘よ鳴り響け』(集英社文庫)に照らして朝ドラ「エール」を視ると、その薄っぺらさに、憤りを通り越してどっちらけに白けてしまうのは私だけではないだろう。
 なるほど、古関を一躍有名にしたのは、「勝ってくるぞと勇ましくー」との歌い出しから始まる「露営の歌」であった。だが、この曲に込められた哀調を帯びたメロディーは、古関が妻と共に「満州旅行」で203髙地や旅順の戦いの後などの古戦場を見学し、「力で奪う国の領土争いの悲惨な犠牲の痛ましさ」(自伝p65)の感情であった。
 母親の手紙では、「婦人会で出征兵士の見送りにいくと、皆が小旗を振って、お前の作った歌ばかり歌います。」近所の人たちも「息子さんの作った歌ですってねえ」と声をかけられ、晴れがましい気持ちだ。五年前、お前が東京に出たときは、親類中が悪口を言っていたが、この頃は手のひらを返したようにチヤホヤします。と書いている。この時、古関は、ようやく親孝行ができたとうれしかったという。
 昭和12年12月12日、南京が陥落した時、東京でも提灯行列が行われ、コロンビアレコードから社員や芸術家が参加し、古関も提灯行列に加わった。この提灯行列には、「露営の歌」が行進曲として使われたという。(p70)
 古関は、翌年の昭和13年に「露営の歌碑」が京都嵐山に建立されたエピソードを紹介している。
 碑面には 「露営の歌 勝って来るぞと 勇ましく 陸軍大将 松井石根」という文字が刻まれている。古関は、終戦後、「この碑が進駐軍に撤去されているのではないのか」と懸念しながら、嵐山を訪ねたところ、その碑は「苔むしても見上げるばかりに厳然と気品のある姿で建っていた。」「思いもかけぬ敗戦となり、戦犯となられて死刑に処された松井石根大将の温顔や、その苦衷が想われ、”勝ってく来るぞと勇ましく”と歌って生命を賭して行かれた人々、その戦争で失われたものの大きさが、一度に込み上げてきた。」(p72)と綴っている。  

 さて、今回のブログでは、NHKの朝ドラの批判が狙いなのではない。NHKの前身である「日本放送協会」が運営するところのラジオ放送が、昭和12年に始まった「日中戦争」をどのように報道していたのか?その実態を明らかにするとともに、ラジオ放送が戦争に与えた影響を考察することにある。
 考えて見ると、ラジオ放送と戦争との間には、想像以上に密接な関係がある。新聞は、読者に「視覚」を通して訴えかける。そこには、「読む」「考える」「批判する」という読者の余地が残されている。しかし、ラジオは、「聴覚」を通して視聴者の内面に直接訴えるものであり、その「プロパガンダ」あるいは「アジテーション」の効果は、数段増す。視聴者国民は、家庭に居ながらにして数百万人が参加する集会の場に半ば強制的に参集せしめられる。国民の「戦争意思」(国論)の形成にあたっては、「書かれた言葉」(新聞)よりも「語られた言葉」(ラジオ)がより重要となる※かのナチスドイツは「ラジオは、総統と国民を結合せしめる紐帯」であるとして、政治の最も重要な機関として之を利用していた。ナチスドイツに心酔していた近衛文麿とその内閣がラジオ放送を如何に重視していたかは想像に難くない。
 ところで、当時のラジオの受信契約件数は、どのぐらいだったのだろうか。実は、昭和10年・200万件、昭和11年・250万件、昭和12年・300万件、昭和13年・350万件と、日中戦争の拡大とともに大巾に伸びていたことが分かる。
 宮本吉夫著『放送と国防国家』(日本放送出版協会)によれば、「昭和十二年五月八日を以て、ラジオの聴取に加入してゐる数が三百万人を突破した。」(p283)という。「この三百万と云ふ数字は、大体受信機の数であるから、従って仮に一つの受信機によつて、五人の人々が聴いてゐるとして、実に千五百万人が、ラジオを聴いてゐることとなるのである。内地の人口を七千万人とすると大体五人につき一人がラジオに親しんでゐることになるのである。」もちろん、ラジオの普及率は、都市部と郡部とでは大きな開きがある。昭和十三年の統計によれば、世帯平均の普及率は29.4%であるが、都市部では49.8%である一方、郡部では17.3%と低かった。※不思議なことに、NHKの朝ドラには、都会なのにラジオが登場しない?
 一体、ラジオは、「日中戦争」の開始時期(昭和12年~13年)にどんな報道をしていたのだろうか?『放送と国防国家』によれば、日中戦争(支那事変)勃発以後、ニュース放送上の措置を三点挙げている。(p178~180)

 ⑴ 事変関係その他重要ニュースの全国統制
  ・事変関係及び国家的時局ニュースは全て東京からの放送に一元化された。また、このニュースは、朝鮮、台湾、満州、北支、中支にまで及んだ。
 ⑵ ニュース放送時間の増加
  ・事変発生後、「早朝ニュース」放送(前夜の放送終了時から翌朝までに編集されたもの)が設けられた。昼のニュース、午後4時のニュース、午後9時半のニュースなどは、放送時間が延長されることになった。
 ⑶ ニュース放送の平易化
  ・事変発生後、ニュースが速報であるため、難解な用語があって、一般大衆に理解しがたいため、「今日のニュース」が設けられた。また、事変直後には「ニュース解説」も「ニュースの理解を容易ならしめるため当日の重要ニュースにつき特に詳細な解説を行ひ、国民の時局知識の涵養に資する」ために設けられた。(p180)

 私が注目したのは、日中戦争勃発直後に始まった「ニュース解説」である。この「ニュース解説」の内容が分かれば、当時のラジオ放送の報道内容や報道姿勢がいかなるものであったのかが概観できるのである。というのは、今日のNHkのニュース解説員が担っている重要な役割をこの「ニュース解説」が果たしていたのであり、新聞でいえば「社説」に当たるものであったと解することができる。
 しかしながら、当時の音声記録などは一切残っていない中で、どうやって当時の放送内容を知ることができるのだろうか、と思われる方が殆どであろう。
 だが、それが分かる一級資料が、『放送ニュース解説』(日本放送協会出版)と題する冊子として残されており、私たちも手に取ることができるのである。この『放送ニュース解説』は、日本放送協会が昭和12年7月19日に「ニュース解説」放送を開始して以来、それを収録編集して、販売したものである。これによって当時のラジオの戦争報道の内容を正確に把握できるのである






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 さて、「ナチス」といえば、今日、ユダヤ人を大量虐殺した極悪人の集団とのイメージが広く定着している。ここでは、このイメージに異を唱えようと思う訳ではない。しかし、この極悪人の集団(党)= ナチス党とは、如何なる目的を持って創設され、その活動は実際のところ如何なるものであったのか?こうした問いに答えてくれる著書や論攷が、余りにも少ない。ナチスやヒトラーに関する研究と称するものは、如何に悪いことをやったのかという「キワモノ」が殆どである。
 さて、「ナチス」というのは、略称(蔑称に近い)であり、正式名称は、 Nationalsozialistische  Deutsche  Arbeiterprtei である。正式な略称は、頭文字をとって NSDP である。日本語訳は、「国家社会主義ドイツ労働者党」「国民社会主義」「民族社会主義」などがあるが、私は「国民社会主義ドイツ労働者党」とするのが適当だと考える。
 そこで、疑問が湧いてくる。なぜ「ナチス」は、「労働者党」を名乗ったのかという点である。残念ながら、この問いに答えてくれる著書、論攷の類いが殆ど見当たらない。
 そうした中で、中村幹雄氏の『ナチ党の思想と運動』(名古屋大学出版会)は、私の素朴な疑問に正面から答えてくれる貴重な著書である。
 中村氏は、読者に次のような問題を投げかける。
 「ナチ党とは、正確には国民社会主義ドイツ労働者党」というが、「それでは「国民社会主義」とは、いったい何であり、またこの党は何故、「労働者党」と名のっているのか。「国民社会主義」と「労働者党」との間には、どのような内面的関係があるのであろうか。」(p22)
 中村氏は、ヒトラーのナチ党への入党にあたっての念頭にあった考えを次のようにまとめている。
 「市民層は国民主義の立場を強調するけれども、それとは裏腹に労働者問題には反社会的な態度をとっている。このような態度こそが労働者を階級闘争や国際連帯を説くマルクス主義陣営に追いやるのであって、これは市民層の責任である。このような市民層の反社会的な国民主義では、結束した国民は形成できない。労働者をマルクス主義陣営から奪い返し、労働者と市民との社会的分裂に架橋して新しい国民を創出する課題、これは国民社会主義だけが実現できるのであると。」(P63)
 こうした中村氏の言説に照応する箇所を『わが闘争』の記述から読み取っていこう。
 ヒトラーが「労働者問題」に眼を向けるようになったのは、自らのウイーンでの体験を通して得た次のような「労働者」の悲惨な状態があった。誰もが知っている(だがまともに読まれていない)ヒトラーの著『わが闘争』には、次のような悲惨な労働者の荒んだ生活が記述されている。
 「なにかしら仕事はいつもあるものだということを、わたしはまもなく知った。日々のパン仕事の不確実さがわたしには、やがて新生活の最も困難な暗黒面の一つだと思えた。「熟練」労働者は、未熟練労働者の場合のようには、そんなにたびたび首を切られない。しかしかれもまた、このような運命から全然害を受けないこともない。かれには仕事がなくてパンをかせげないというかわりに、工場閉鎖か、自分たちのストライキがあるのだ。」『わが闘争』上(角川文庫p51~52)「・・・こうした「移住者」の中には、ただアメリカ移民だけが数えられるのではなくて未知の大都市へ行くため故郷の村を捨てようと決意した若い作男もそうである。かれもまた不安な運命に身をまかせる覚悟ができているのである。」「しかし健全な働き場所を短期間で失うと、困ったことになる。新しい仕事をみつけることは、特に冬は、不可能ではないまでもたいへん困難である。始めの数週はなんとかなる。かれは労働組合金庫から失業手当をもらい、できるかぎり切りぬける。だが最後の一銭一厘を使いはたし、金庫も失業が長期にわたるため手当を停止したとき、大きな困難がやってくる。そうなるとかれは、空腹をかかえてうろつきまわり、しばしば最後のものまでも質におき、売り払い、着のみ着のままで零落し、そして肉体的不幸に加うるに精神的にも毒された環境の中に、外見的にも沈んでしまうのだ。」(p52~53)「このようにして、普通なら勤勉な人間も、その人生観全体にゆるみが出てきて、次第にわずかな利益のために、他人を利用する道具になっていくのである。かれはなん度も自分の過失もないのに失職してしまう。これはもはや経済的な権利の闘争でなく、国家的、社会的あるいは一般の文化的価値の破壊の問題ですらあるのだが」「この経過を幾千となくわたくしは、目を見開いて追うことができた。この動きを長く見ていればいるほど、わたくしは人々を残酷にもすりつぶしてしまうために、貪欲にひきつけるこの大都市に対して、いっそういや気がさした。かれらが出てきたときは、依然として国民に数えられていた。しかしかれらがとどまっておれば、かれらは国民ではなくなっていくのだ。」(p53~54)
 この後も、悲惨な労働者の生活についてのヒトラーの記述は、長々とつづく。「国民的誇りの欠如」「労働者の子どもの苦難の道」「若い権威軽蔑者」・・・ヒトラーは、こうした心身共に荒んだ生活を送る労働者を「国民化」するための予備条件を次のように述べる。
 「ある民族を「国民化」する問題は、まず第一に、各人に教育を与えうる基礎として、健全な社会状態をつくるということである。というのは、教育と学校によって自分の祖国の文化的、経済的な、なかんずく政治的な偉大さをじゅうぶん知るものでなければ、かかる民族一員であり、またありうるという内心の誇りを獲得することができないし、また獲得しないであろうからだ。」(p63)
 中村氏は、「第五節 ナチ党の労働者志向性」において、ヒトラーの演説が「中間層よりも労働者のほうに頻繁に言及し」ていることを指摘し、「それらの発言から彼の労働者獲得の志向がはっきりと読み取れる」(p82)として、彼の次のような発言を引用している。
 「われわれは労働者を獲得することを欲する。かかるが故にわれわれは労働者党なのである。」「われわれの目標は、まさしく労働者を・・・・われわれの思想に獲得することである。」党新聞の宣伝対象は知識人ではなく、「何はともあれ労働者を獲得する方向に向けられるべきである。」「ドイツを解放する闘争は、広汎な大衆から湧きでる力によってやり抜かれるであろう。諸君はドイツ労働者抜きでは、決してドイツ国家を維持できない。」(P82)
 こうしたナチ党の「労働者獲得政策」の具体化として、中村氏は、「ナチ経営細胞機構」の成立を挙げる。氏は「第三節 ナチ経営細胞機構の成立」において、次のように述べる
 「国民的社会主義構想の具体的実践の問題を考察しようとする時、ただちに念頭に浮かんでくるのが経営内の労働者(並びにホワイト・カラー)の獲得を目指したナチ経営細胞機構・・・(NSBO)の
結成と活動であ」る。「このナチ系統の労働者組織樹立の試みは、一九三一年一月一五日に党全国指導部内に全国経営細胞部・・・(RBA)が創立されることによって、全国的レヴェルでの結成を見るにいたる。氏は、ここに至る前に、ドイツの各地の党組織から「労働組合をはじめとする労働者問題解決への要請がだされていたことに」注目している。
 さて、一九三二年九月五日、時のパーペン内閣は、協約賃金の10~15%、場合によっては25%までの引き下げを許容する「緊急令」を発布する。これに対してナチ党経営細胞指導部は、全国にストライキを主導するように指令を発する。(p190)
 中村氏は、ナチ党経営細胞の「戦闘性」を示すものとして、首都ベルリンで行われたベルリン交通会社のストライキを挙げている。
 「ナチ経営細胞の戦闘性は、一九三二年一一月三日~七日間にわたり賃金引き下げに抗議し、自由労働組合系の労働指導部の懸念を押し切って敢行されたベルリン交通会社(従業員数二万二000人、うちナチ経営細胞員数は一三〇〇人)のストライキに際し、最大限に発揮された。即ちストライキ指導部には共産党系の革命的労働組合反対派(・・・)のメンバーとともに四名のナチ経営細胞員が参加する。このストライキの実施中には、ナチ系の労働者が共産党系の労働者と形のうえではあい並んで就業阻止のピケット・ラインをはり、しかも市内の随所で警察の発砲をも含む街頭衝突が繰り返され、突撃隊によるバリケード構築というような騒乱状態が目撃されるまでとなった。」(p191)

 さて、以上のような中村氏の著述を踏まえ、ここからは、私の考えを述べる。
 第一に、ナチ党とは正に「労働者の党」であったことである。
 第二に、ワイマール期のドイツには、ナチ党のほかに二つの「労働者党」が存在したことである。即ちドイツ社会民主党と、この党から別れたドイツ共産党である。
 第三に、この3党のうち、ナチ党とドイツ共産党は、共に、ワイマール共和国の民主主義体制を革命で倒し、一党独裁体制の樹立を目指していた。即ちナチ党は「国民革命」であり、共産党は、「共産主義革命」である。
 第四に、それでは、社会民主党は、純粋にワイマール共和国の民主主義を守ろうとしていたのかといえば、そうではない。社会民主党は、その綱領において「社会主義革命」を規定しており、革命を捨ててはいなかったのである。但し上記の2党とは違い、議会を通じての革命であった。
 第五に、この3党とも(とくにナチ党と共産党)革命のための熾烈な労働者獲得競争を繰り広げていたのである。  

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 働かざるのも食うべからず ~パウロ~「テサロニケの信徒への手紙」より

 マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)を読むと、ルター派や英国のピューリタンによる高利貸資本主義への一貫した批判的立場が浮き彫りにされている。「ユダヤ人の資本主義は投機的な賤民=資本主義であり、ピュウリタンの資本主義は市民的な労働組織であった」(下巻、p207)
 私が最初に述べておきたいのは、「ナチズム」と「ボリシェビキ=共産主義」は、共に、ヨーロッパにおける「働かざる者食うべからず」というキリスト教という共通の宗教的基盤の上に形成された思想であるということである。特にナチズムは、ドイツのプロテスタント地域でその勢力を伸張させたというが、理由のないことではない。以下、「働かざる者食うべからず」という章句に着目しつつ、考察を進めていくことにする。

 まず、手始めに、ナチスの原点ともいうべき25箇条の綱領を取りあげることにしよう。私は、この25箇条の綱領こそが、ナチス党の思想と運動を解明する鍵を握っていると考えるのであるが、どうもナチス研究の専門家の間では、残念ながら重視されていない。
 私が資料として用いたのは、冒頭に掲げた『新独逸国家体系』全12巻のうちの第1巻政治編Ⅰ「ナチス国家 世界観的・政治的・国法的・基礎」に掲載されている「ナチス党綱領」とその解説である。
 ※この『新独逸国家体系』は、ナチス政権が、公務員などの公的な任務に就くドイツ人にナチス体制の全体像を周知させるために刊行された(1936年刊)教科書である。この教科書の邦訳版が日本評論社から刊行されたのは、昭和14年から15年にかけてであったが、単に一出版社の仕事ではなく、日独の国を挙げての大事業であったことは、「新ドイツ国家体系」刊行後援会の顔触れを見れば、一目瞭然である。翻訳者の顔触れがまた凄い。目に付くのは、神川彦松、横田喜三郎、宮澤俊義、田中二郎、川島武宣、末広厳太郎、大河内一男などの東京帝国大学や上原専禄、板垣与一などの東京商科大学(現一橋大)の先生方である。驚くのは、編集主任を務めたのが、講座派マルクス主義者の平野義太郎であったことだ。さて、戦後「進歩的文化人」として登場するこの人たちにとって、この時代は、本当に「暗い谷間の時代」だったのだろうか?
 
 さて、第1巻「五 ナチス党(NSDAP)綱領」と ナチス中央局長・ドイツ国・プロイセン内務参事官 ハンス ファブリチュス の解説(九州帝大教授 今中次麿 訳)を見てみよう。※引用にあたっては、漢字を旧漢字体から新字体に改めるなどした。また、今中の訳では「国民社会主義」と訳すべきところを「民族社会主義」と訳しているが、そのまま引用した。 

 
私がナチス党綱領25条の中で注目したのは、第十条と第十一条の「労働」に関する規定である。

 第十条 『精神的、又は肉体的労務に従事することは、国家公民各員の第一の義務たらざるべからず各員の活動は、全体の利益に矛盾すべきものに非ずして、全体の範囲内において、且つ全体の必要にもとづきて、為さるべきものなり。』(p223)
 解説ー「民族的社会主義は、貨幣の代わりに、労働を、思想及び感覚の中心点に置く。民族的社会主義は、同時に労働の概念を、古き、独逸的意味に還元するところの、新しい生命をもつて充さんとする。」「自由主義は、私益を神聖化した。したがつて、この立場から自由主義によつて、合法的とせられ、そしてブルヂョア的意味において、あくまで適当と見られる多くの活動も、民族社会主義的立場に立つ思想からすれば、もはや、労働として認容せられ得ないのである。」「全体の福祉に矛盾するすべての活動は、決して労働ではない、むしろ犯罪であり、不正行為である。」(p224)

 第十一条 『従って我等は要求ス。ー労働なき及び勤労なき所得の廃止を。利子奴隷制度の打破を。』(p226)
 解説ー「働かざるものは、喰ふべからず。すべて所得は、一般のために役立つところの負担の結果たるものとして、初めて正当化せられねばならない。」(p228)
 「精神的たると肉体的たるとを問はず、企業者たると賃労働者たるを問はず、生産者たると消費者たるとを問はず、その創造的労働の搾取は、全国民の労働力の搾取であるそのことこそ自由主義時代において、最もその効用をを発揮した、国際的な、主としてユダヤ的な金融資本の目標であつた。その帰結は、労働に対する、貨幣の非倫理的な支配であつた。」「国際的金融資本は、飢餓的危機・インフレーション及びデフレーションをもつて、かれらの仕事とした。惨憺たる戦争が勃発したとすれば、そこにはかれらの魔手が働いてゐる。数百万の人々が窮乏に苦しんでゐる時代に、単に欲する程度まで物価を高めんがにのみ、全収穫を消却したり、海中へ投棄したりすることは、かれらにとつて、朝飯前である。」(P228)「かやうな強奪的資本の支配を打破し、独逸国民を、国際的吸血鬼の暴力から解放することは、民族的社会主義が、最初より、みづからの歴史的な大きな課題と認めてゐたところである自由主義的金融資本主義的経済観念の、利己主義的利潤追及行為に対抗して、民族的社会主義は、経済が、国民に対し、国民の抑圧のために、責任があるといふ原則を対置する。貨幣は国民を抑圧すべきではなく、却つて国民に奉仕すべきである。経済は自目的ではなく、むしろ国民の生活を確立し、且つその福祉を増進すべきものである。かやうな課題に応じて、経済生活の改造されることが、民族社会主義的綱領の「利子奴隷制打破」の要求の目標である。」(P229)

 つまり、ナチスが理想とする「労働」とは、自分自身のための私的な労働ではなく、あくまでも国民全体の福祉のために行われるべきものであること。これに対して「自由主義的金融資本」は、「利子奴隷制」であり、国民的労働力の搾取である。「国民社会主義」は、「ユダヤ的国際金融資本」の暴力から国民を解放すること。即ち「利子奴隷制の打破」を目的としている。但し、ナチスは、資本そのものを廃止とは言ってはいない。

 それでは、レーニンが率いるボリシェビキが起こしたロシア革命は、「労働」をどのように規定しているのだろうか。革命の翌年に採択された「勤労し搾取されている人民の権利」を見てみよう。 

 勤労し搾取されている人民の権利の宣言(一九一八年)

 「二 第三回全ロシア労働者・兵士および農民代議員ソヴェト大会は、人間による人間のあらゆる搾取の廃止、階級への社会の分裂の完全な廃絶、搾取者に対する容赦ない抑圧、社会主義的な社会組織の確立、およびあらゆる社会主義の勝利を、自分の基本的な任務として、つぎのように決定する。」(P277)として、下記の決定を行っている。
 (1)土地の私有を廃止し、無償で勤労者に与えること。森林、地下資源、家畜と農具、農園などを国有財産とすること。
 (2)工場、鉱山、鉄道及び他の生産手段と輸送手段を国有にうつすこと。
 (3)銀行の国有化
 (4)社会の寄生的な層をなくし、全般的な労働の義務を実施する
 (5)搾取者の権力が復活する可能性をなくするため、労働者と農民の社会主義的赤軍を組織し、有産階級を完全に武装解除する。 

 また、同年に制定された「ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国憲法」の第十八条には、次のような規定がある。

 第十八条 ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国は、労働を共和国のすべての市民の義務であるとみとめ、「はたらかないものは、くうことができない」というスローガンをかかげる。(P283)

 さらに、第六五条には、選挙権及び被選挙権が与えられない下記のカテゴリーに該当する人々についての規定がある。(p285~286)※つまり、ソヴェト政権下で「働かないもの」=社会の寄生層とみなされた人々である。

 (イ)金もうけの目的で賃労働を利用しているもの
 (ロ)資本からの利子、企業からの収入、財産からの所得というような労働によらない収入でくらしているもの。
 (ハ)私的な商人、およびブローカー
 (二)修道僧および僧侶
 (ホ)以前の警察、憲兵隊および秘密警察の勤務員とそれらの手先、ならびに旧ロシア皇族。
 (へ)精神病者・精神薄弱者、禁治産者。
 (ト)破廉恥罪によって有罪とされたもの。 

 つまり、ロシア革命では、「資本家」ばかりではなく、「金もうけの目的で賃労働を利用しているもの」「貯金の利子でくらしているもの」「商人」そして「修道僧および僧侶」までも「働かないもの」であり、「社会の寄生層」として否定される。

 さて、以上のことを踏まえ、「ナチズム」と「コンミュニズム」の共通点を列挙してみると、以下のように纏められる。

 ①「働かざる者食うべからず」のスローガンのもと、国民に「労働の義務」を強制している。
 ②私的な労働を否定し、労働を国民全体の福祉のため、あるいは「社会主義→共産主義社会」実現のためのものとされる。即ち「労働の全体主義」化である。
 ③両方とも、その思想は、「資本」及び「資本家」は悪であり、「労働」及び「労働者」は、善であり「尊い」存在なのだという「倫理観」に貫かれている

 ここから、次のような仮説が浮かび上がる。

 ナチズムはボリシェビズム=共産主義=全体主義を起源として生まれたもう一つの「全体主義」である。

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 今回から展開するブログの標題は「レーニンの弟子ヒトラー」とすることにした。別にふざけているわけではないが、中には、この標題を見て怒り出す方々もおられるのではないかと思う。特にドイツ近現代史の専門家からは、「いい加減なことを言うな!」と、お叱りを受けるかも知れない。 
 さて、私の傍らには、過ぎ去ろうとしない過去』(人文書院)と題する書があり、かの有名な「ドイツ歴史家論争」の主要な論説が採録されている。この論争が戦われたのは、30年以上も前のことであるが、今読み返しても、有益で読み応えのあるものである。(出版の意図にはかかわらず)ここでは、その内容に入り込むことは差し控えたい。
 ここで問題にしたいのは、論争を仕掛けたハーバーマスと、翻訳を通じてこの論争を日本に紹介した三島憲一氏の意図である。
 ハーバーマスや三島氏の意図は明白である。
 すなわち、彼らの本当の狙いは、ナチスの蛮行を「唯一無二性」を強調し、旧ソ連の収容所群島における階級絶滅との比較を「ドイツ人の罪を相対化」するものとして拒否するところにある。
 何故そうするのかを考えてみよう。この論争が戦わされたのは、1986年~87年にかけてであるが、その2年後には、ベルリンの壁が崩壊する。そして、その2年後には、ソ連邦が崩壊する。共産主義革命が幻想であったことが誰の目にも明らかになった。更に、共産主義の犯罪が白日のもとにさらされる前に、先手を打って隠蔽するところにある。常に「正義の中心」にいなければならない左翼が、「共産主義革命」の正義の場所から、ナチスの蛮行に向き合う「過去の克服」という新たな正義の場所に移行したことによって新たな市民権を得ようとしたのである
 つまり、「過去の克服」なるイデオロギーは、左翼が自らの思想責任に向き合うことを拒否し、共産主義の犯罪の究明に向かう世論からの弾よけとして考案されたものである。その証拠に、彼らの誰もが、まともに「レーニンスターリン毛沢東」の人類史上未曾有の犯罪を正面から取りあげようとしていないのである。
 三島氏が、「ドイツ歴史家論争」を日本に持ち込んだもう一つの狙いは、次の点にある。そもそも、ナチスドイツの600万人のユダヤ人絶滅と日本と連合国との戦争による死者2,000万人とを比較するという、比較すべきではないものを強引に比較の対象とすることによって、日本もドイツと同様の苦悩=問題を抱えているという誤った意識を日本人に植え付けるところにあった。その後の動向を見ると日本の歴史学会や言論界は、まんまとこの企みにはまってしまった、または進んではまった観がある。
 別の言い方をするなら、日本の「左翼」は、ドイツから輸入されたこの「過去の克服」=歴史認識へと移行することによって、今日まで、まんまと生き延びることができたのである
 しかし、私は騙されない。比較するな!と言われるとますます比較してみたくなる、生来のねじ曲がった根性が頭をもたげてきた。・・・そして、ヒトラーのナチスとレーニンのボリシェビキ党を比較することによって浮かんできたのが、「レーニンの弟子ヒトラー」というこの標題であった・・・。 

 
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 ①『婦人之友』昭和19年1月号


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 ② 左側ー『婦人之友』昭和19年3月号 右側ー『婦人之友』昭和19年1月号


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 ③『婦人之友』昭和17年10月号

  今回は、戦時下の育児と子供の家庭での生活指導について取り上げる。

 ①は、「母乳をよく出すために」という記事で、赤ん坊を丈夫に育てるため、良い母乳を出す方法などを母親が専門医に聞いている。内容は、「生活環境と母乳の出」「母乳と食物の関係」「母乳の成分」「母乳不足の場合」「授乳時間について」「マッサージや体操」「母乳栄養児は強い」「隣組や町会などで母乳を分ける」などの内容が指導されている。戦時下にあっても、いや戦時下であったからこそ、赤ん坊が大切に育てられていたことが分かる。

 ②は、『婦人之友』の裏表紙に掲載されていた「子供の生活指導図絵」である。日本の母親は、戦時下の育児にいかに熱心に取り組んでいたかが分かる資料である。

 ③は、「四つの託児所の経験」と題する羽仁説子による記事である。
 ここでとりあげられているのは、東北の「「農繁期託児所」にセツルメントとして派遣された女子学生が、指導経験を語っている。戦時下には、働く母親の増加に伴い、都市や農村には、多くの託児所が設置されていたことが分かる。

 総力戦の下では、日本の歴史の中でも、女性の社会進出が最も進んだ時代であり、同時に子供を社会全体で育てるという意識が徹底されていた時代でもあり、また、子どもが大切にされていた時代だったのである。戦争時下の日本は、エネルギッシュな女性によって支えられていたのである。そしてまた、「ベビーブーム」は、戦時下において既にはじまっていたのである。 


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 アメリカ人は戦争が好きな国民なんだ・・・という言説が日本のマスメディアをはじめ巷に溢れたのは、確か湾岸戦争の頃ではなかったかと思う。今でも、「アメリカ人は戦争が好きなんだ」というイメージを抱いている日本人は案外多いのではないのかと思われる。
 しかし、私に言わせれば、この「アメリカ人は戦争好きな国民」なのだというイメージは、極めて浅はかで、愚かなものである。この言説の背後にあるのは、75年間も米国の保護国として自らの防衛をないがしろにし、米国の覇権秩序の下で、ひたすら平和と繁栄を謳歌してきた日本人の病理に深く根ざしているということができる。
 そうした日本人の間には、軍事や防衛などの汚れ仕事は、米国民のような「戦争好きの国民」にまかせ、自分たち「平和愛好国民」たる日本人は、「話せばわかる外交」に徹すべし・・・との心性がよこたわる。
 だが、こうした永年抱いてきた日本人の心性に冷水を浴びせる事態が米国に起こった。殆どの日本人が予想できなかったドナルド・トランプの大統領当選である。トランプのスローガンは「アメリカン・ファースト」である。このことは一体何を意味するのか?
 「アメリカン・ファースト」とは、1930年年代の米国のローズベルト外交に反対して、「極東の戦争に介入するな。」「米国の外交は中立主義に徹すべし」とする「アメリカ第一委員会」の主張でもある。
 ということは、トランプの目指す外交ー軍事・防衛政策のねらいは、1930年代の「中立主義」の時代へと米国を引き戻すことにあるのではないのか。トランプは、米国は世界の警察役を降りると言い出している。つまり、米国は、覇権国家の座を放棄しようとしている。もはや、米国には、覇権国家として君臨するだけのパワーが衰えてきているということだ。
 以上のことを念頭に、今回のブログでは、第一次世界大戦から第二次世界大戦に至る米国の戦間期に於ける「戦争と平和」を巡る論調と国民の意識の変化をとりあげることにする。
 

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 以前から疑問に思っていたことがある。日本が「大東亜戦争」と名付けたあの時代は、暗い時代であり、みんなものも言えず、政府の命ずるままに若者は戦場に送り出されていった。女性は、息を潜めて戦争が終わるのを待つしかなかった・・・。これが戦時下の日本に対するイメージではないだろうか。
 NHKの朝ドラなどを見ていると、必ず憲兵や特高警察などが前触れもなくやってきて、登場人物を逮捕し、拷問を加えたりする。なんという番組だったか忘れたが、隣組の班長(本当は組長)とやらが出てきて、やたら威張っていて、防火訓練に無理矢理病気がちの主婦を引っ張り出す。みんな裏では、ヒソヒソ話をして、文句を言うが、表だっては言わない。また、ある日突然、赤紙が来て、若い男が兵隊に招集される。肉親は泣く泣く戦場に送り出す。・・・これって本当なのか?NHKの朝ドラは一種のサブリミナル効果を狙っているのかとも思えるが,相も変わらずこうしたパターンを繰り返している。令和2年4月から、始まった作曲家古関裕而を主人公とした「エール」では、どんな「反戦ドラマ」をねつ造してくれるのか、楽しみではある。
 このブログは、戦時下にあって、本当のところ日本の女性は、何を考え、どのような生活をしていたのかを明らかにしていきたい。というのは、私たちは、これまで戦後造られた価値観のフィルターを通してしか、戦時下の日本を顧りみてこなかったからである。あくまでも戦時下に生きた女性のありのままの価値観で、その生活を振り返ることにより、真実を明らかにしていきたい。これが、当ブログのねらいである。しかし、そのことは、決してあの戦争を美化したり歪めたりすることとは全く違うのである。
 

 さて、私が戦時下の日本の女性と家庭生活の真実を明らかにする資料として用いたのは、『婦人之友』である。この雑誌は、言うまでもなく、日本最初の女性ジャーナリストであり、また自由学園の創始者として著名な羽仁もと子が主宰する、日本を代表する婦人雑誌であった。今回のブログでは、この『婦人之友』を通して、戦時下の日本の女性の思いと家庭生活を取り上げ、戦時下のくらしの真実に迫っていきたい
 最初に、 羽仁もと子の略歴を紹介しておこう。参考にしたのは、斉藤道子氏『羽仁もと子―生涯と思想』ドメス出版刊、である。
 
 明治 6年 青森県八戸町に生まれる
 明治22年 東京府立第一高等女学校に入学 明治24年卒業
 明治23年 キリスト教会の洗礼を受ける
 明治29年 小学校教師、女学校教師などを経て、報知新聞記者となる
 明治34年 羽仁吉一と結婚
 明治41年 『婦人之友』を発刊
 大正10年 自由学園創立
 大正15年 長女説子、マルクス主義歴史学者森五郎(羽仁五郎となる)と結婚
 昭和10年 東北農村生活合理化運動を始める(東北6県にセツルメントをひらく)
 昭和13年 北京生活学校開校
 昭和16年 学校農場を那須に開設
         米、木炭の配給通帳制、粉、油、砂糖の配給切符制
         女子勤労動員開始
         大東亜戦争開始
 昭和17年 衣料点数切符制、みそ、しょうゆの切符制
 昭和18年 野菜の配給制(隣組単位)
 昭和19年 自由学園初等部那須へ疎開
 昭和20年 東京大空襲
         敗戦
 昭和32年 83歳で死去

 ※なお、戦時下の羽仁もと子を取り上げる意図は、戦後リベラル派に対するあてつけや断罪を目的としたものではない点をとくに強調しておきたい。逆に、こうしたリベラルな婦人運動家が執筆・運営する雑誌であるからこそ、リアルな戦時下の女性の姿や家庭生活が浮かびあがってくると考える。なお、この『婦人之友』は、前金予約制にもかかわらず、昭和一八年六月号は、実に164万部の発行部数に達したというから、決してマイナーな雑誌ではなかった点を特につけ加えておきたい。

 冒頭の写真は、『婦人之友』昭和17年2月号に掲載された、羽仁もと子の「大いなる時代は遂に来れり」と題する巻頭言である。
 12月8日の真珠湾攻撃によって開始された「大東亜戦争」、日本の命運をかけたこの戦争に対して、羽仁もと子は、以下のような言葉で、日本女性にその使命感を篤く語っている。

 「大いなる時代は来ました。待ちに待った大いなる時代は遂に来ました。一人びとりがその意味を深く心にとめて、この天業に参加し、この天業を成就するために、あらん限りの力を傾け尽さなくてはなりません。さうすることの出来る国は、また次々と必ず来たるべき新時代にも、大いなる立場を与へられて栄えゆくことが出来るのです。」「個人の尊貴民族の尊貴国家の尊貴と、四海人類の同胞愛とは、二つにして一つのものです。さうして人間も国も、その与へられてゐる力と使命を通して、相互に援け合ひ補ひ合ふのは、共に踏むべき人の道です。しかし今日の人間社会は、強いものが弱いものを、自己の便益のために生かしめようとしてゐます。英米の世界制覇の迷信は、殊に最大なその代表的なものです。」「今も英米の覇権の下に、大体多くの国々が、その国民を擁しつゝ棲んでゐるといふことが出来ます。わが日本を呼び出してゐる使命の声は、長い世紀の間存在して来た世界の覇道を徹底的に打ち破るためです。今の覇を倒して取って代わるためではありません。すべての人も国も、相互に尊敬し合ひ愛し合ふ新たな世界を創るためです。第一線の武力に続いて、一心に深い純粋な思想から来る愛と理知との力を養ひつゝ、しかも活発に動き出さなくてはなりません。日本の武力は素晴らしい、彼等の愛と理知とは更に慕はしいものであると、すべての民族が認めるまでに。私たちの第一線である軍隊に対する銃後の声援は、実に盛にならなくてはならないのです。」「覇道はけふ限り我々自身の中にも、明らかに時代遅れのものとして記憶されてゆくやうに、わが日本帝国の上にあれと、まづ祈らざるを得ません。今上陛下の臣民は手をとり合って励みませう。」p13~16

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 これは、同号に掲載された、長女の羽仁説子による記事「戦時家庭生活読本」である。30頁に渡って、戦時下の家庭生活のあり方を例を挙げて具体的に記述している点で、大変興味深いものである。ここで、説子が特に強調しているのが、「家庭生活の計画化」である。
 その主な内容は、次の通りである。
 〇重大になる寝る前の家 
 ・戦時に於いては夜中に起きねばならない。・夜中にガスがとまったり電気が来なくなったりすることを考えねばならない。・暗闇の中で3分間の身支度 など
 〇生活の歩調を揃える
 ・早起き・朝仕事は家中で・朝の食卓は家族の今日の生活相談会議
 〇昼の時間に予定をもて
 ・お弁当主義の実行・家庭婦人と工場労働・協力生活(協力畠、協力食事、協力風呂協力どぶ掃除の励行、協力クリーニング)
 〇子供たちのために(母の覚悟、戦時下の教育・保健、子供たちを強くしたい、着物は厚い目に、山羊を飼いたい など)
 〇戦時下 伝染病を予防したい
 〇少い種類の材料を工夫して・・・今日の料理は前日までの買い物の材料でする、今日の買い物は明日の料理のために、烏賊料理、めざし料理 など
 〇和服のセルコートをなほして作つておきたい働き着
 〇感謝貯蓄運動の提唱

 そして、本号の最後の頁には、「雑司ヶ谷短信」と名付けられた編集後記が掲載されている。「偉大なる瞬間」と題して次のような言葉が掲載されている。

 「紀元二千六百一年、昭和十六年十二月八日こそは、日本国民にとつて忘れることの出来ない日となつた。午前七時、いつもの通り「お早うございます」と勇ましい声をあげて挨拶に来る男子部の委員たちに会はうとして、玄関に出てゆくトタンに、「帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」とのラジオが聞え出した。あの瞬間の気持―覚えずその場に立ちつくして、暫くは言葉もなく、互に顔を見つめあって、今こそ皇国の運命の前にあらゆるものを捧げ尽す時が来たぞと心の中で叫んだ。」「陛下の赤子たる一億の臣民、到るところで同じやうな気持を経験したことであらう、真に偉大なる瞬間であつた。雪の如き芝生の霜の上での宮城遙拝、つゞいて朝の礼拝に臨む、全校男女六百人の、凜々しくも頼もしげであつた顔つきは、今なほ眼底にあつて自分たちを励ます。」p104
 
 戦時下の日本にあっては、女も男も、リベラルも保守も、老いも若きも、全国民が一体となって、勝利を信じて戦っていたのである。左翼や自由主義者が弾圧されたために日本は戦争に向かった」などというのは、戦後の「左翼・進歩的文化人」によってつくられた「虚構である。なぜ「左翼・進歩的文化人」は、そのような「虚構」の歴史をねつ造しなければならなかったのか。それは、戦後の「左翼・進歩的文化人」なるものは、戦時下にあっては、大東亜戦争を推進する主要なイデオローグであったからだ。

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  尾崎秀実については多くの著書が出版されているが、ここでは、上記の二著を基に、スパイ尾崎の行動とその目的を明らかにしていくことにしましょう。左は、昭和研究会の一員でもあった酒井三郎の著『昭和研究会 ある知識人集団の軌跡』TBSブリタニカ刊、右は『尾崎秀実時評集 日中戦争期の東アジア』平凡社刊、米谷匡史氏編、です。
 酒井三郎は、その著『昭和研究会』の中で、スパイ尾崎について、次のような証言を行っています。
 「もし尾崎が、日本の社会革命のために、情報を提供していたとすれば、彼ほどよい立場にいたものはなかったといってよいだろう。彼は近衛内閣の嘱託であり、近衛の秘書官を中心とする朝飯会のメンバーとして、極秘情報を入手できた。新聞社や満鉄関係から、刻々動く情報を得ることができた。また昭和研究会のメンバーとして、各研究会の動きを知り、諸官庁の資料を手に入れることができ、日本の対支、対米英、とくに対ソ方針を的確につかむことができた。」p232~233
 酒井は続けて尾崎の次のような不審な行動を証言しています。
 「私は、尾崎がある日、目の色を変えて昭和研究会の事務局に飛び込んできた時のことを思い出した。彼は、居合わせた大山と私に、「漢口を即時たたくべし、漢口は政治、経済はもとより、軍事、交通その他、大陸に残された唯一の大動脈の中心である。もし、この要路を押さえれば、直ちに中国の息の根を止めることができる」と言って、原稿用紙数枚の意見書を出し、「これを昭和研究会の名で、内閣や軍に出そうではないか」と熱心に主張した。前に述べたとおり、支那事変に対する研究会の根本方針は、事変の不拡大であった。そして、その主唱の中心をなすものは、支那問題研究会であり、尾崎はまたそのメンバーの一人であった。大山と私とは、尾崎の意見の突然の急変に、奇異な思いをした。」p233 これに続けて酒井は、尾崎は「いろいろのルートを通じて」強力に働きかけたに違いない。「その後、軍が漢口作戦に直進したのは、尾崎のこのような働きかけが、ある程度作用したといっても過言ではあるまい。」p233 と結論づけています。
 また酒井は、尾崎について次のような証言を行っています。
 「また、研究会のある会合で彼は、「ビルマ・マレー作戦を断行すべきだ」と主張して、石原莞爾が「何を根拠にそんな馬鹿なことを言うか」と激怒した一幕もあった。」p233~234
 まず、酒井証言の一つ目、尾崎の「漢口攻略」の主張ですが、「尾崎秀実時評集」には、「漢口戦後に来るもの」(『大陸』一九三八年一〇月号)において次のように述べています。
 「武漢陥落がまことに戦局に本質的なる変化を及ぼすべき重要なる意義を有するものであることは疑ひなきところである。」「漢口攻略は従前の場合とは全く別個の意義を有すると信ぜられるのである。」p173「ともかくも、漢口攻略によって日支抗戦の支那側の抗戦態様に質的転換を強ひるといふ事実以外に、日本の側から見て、口を頂点とする画然たる一つの体制ー体系システムを一応完成せしめるといふことに於て従来の場合と違った意味を見出すのである。」p174
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 漢口とは、南京陥落後、蒋介石政権が臨時首都とした都市です尾崎は、この都市を攻撃せよと言っているのです。このことは何を意味するのでしょうか。その狙いは明白です。日本軍を蒋介石軍と戦わせ、延安の共産軍やソ連を守ろうとしているのです。
 酒井三郎の二つ目の証言ー「ビルマ・マレー作戦を断行すべきだ」との尾崎が主張したとするーについて検討してみましょう。この尾崎の発言がいつ、どういう場面で発せられたかは定かではありませんが、その狙いは十分理解できます。それは、つまるところ、日本軍を南方に向かわせ(南進)、英米と衝突させることによって日本を敗戦に導くためです。裏返していえば、北進論を潰してソ連を守ろうという意図があります。「東亜共栄圏」関係の論文の中に、かなり学問的に粉飾された形(つまりインテリ向けのプロパガンダ)ではありますが、十分にその意図を読み取ることができます。
 尾崎は、「東亜共栄圏の基底に横たはる重要問題」(『改造』一九四一年三月号)において次のように主張しています。
 「東亜共栄圏確立の前提は東洋に於ける英米資本勢力を駆逐するのみでなく、その民族支配の旧秩序方式をも根絶せしめる事にある。支那問題と南方問題との含む基本的意義はその民族問題に在る。此等の地域に於いて植民地的支配に呻吟して来た諸民族の自己解放こそ、東亜新秩序の不可欠なる要素であり、支那民族の解放と自立を通じて[の]日支両民族の正しき協同こそは、東亜共栄圏確立の根幹を成す所の第一前提であると確信するのである。支那民族を先頭とする南方民族の自己解放は、正しく英米旧秩序維持者の東洋に於ける足場を完全に瓦解せしめることを、やがて意味するのである。」p330
 また、逮捕前の尾崎は『改造』(一九四一年八月号)に「独ソ開戦と重慶の立場」とする論文を掲載し、次のように述べている。
 「当局は日本国民を率ゐて第二次世界大戦を戦ひ切る、勝ち抜けるといふ大きな目標に沿ふて動揺することなからんことである。日米外交折衝もまたかゝる目的のための一経過として役立たしめた場合にのみ意味があるものといひ得る。」p407「私見では第二次世界戦争は「世界最終戦」であらうとひそかに信じてゐるこの最終戦を戦ひぬくために国民を領導することこそ今日以後の戦国政治家の任務であらねばならない」p408
 さて、以上の点を踏まえて、加藤陽子氏の主張にもどることにしましょう。
 加藤氏は、尾崎が「逮捕される二ヶ月ほど前に」「南満州鉄道本社のため、東京の政治状況を知らせる部内報に書いた記事」を引用し、尾崎の「国民観」について、次のように述べている。
 「民衆は、「撃て、英米」といった反英米の気持ちにとらわれてしまっている。」p403「支配層がいま頃になって、日本の経済的な弱さを自覚して、英米に屈服することが合理的な選択肢だとわかったとしても、大衆はそれを聞く耳を持たないし、戦争に負けた後でなければ、国民は屈服が正しい選択肢であったなどとは決して認めないに違いない、と。このように非常に暗い見通しを述べていたのです。」p404
 加藤先生。先生のお考えが「英米に屈服することが合理的な選択肢」であること、つまり日米交渉」において米側の提示する条件を受け入れ、妥協することが正しいというのが尾崎の主張だとすれば、私が挙げた対米英開戦前の改造掲載論文は、いったいどのように理解すれば宜しいのでしょうか。是非ともご説明願います。
 もしも尾崎が加藤氏が仰るような「非常に暗い見通しをもっていた」のならば、日米開戦に反対の論陣を張っていたでしょう。それが不可能であれば、少なくとも「この最終戦を戦ひぬくために国民を領導することこそ今日以後の戦国政治家の任務であらねばならない。」などと戦争を煽るような主張をするはずがないのではないですか加藤陽子氏の挙げた資料は、「部内報」の記事です。一方、同時期に改造に掲載された論文は、大勢の日本国民が目にしたものです。その影響力の大きさは甚大なものがあります。どうも加藤氏には、資料の選択に当たって、自分の都合の良いところだけを切り取って、自らの主張の正しさの根拠とするという歴史家としてのルールを逸脱する傾向にあるような気がします。私のような素人でも見抜けますよ。自戒してください。
 

 さて、前回のブログでは、梶川伸一氏訳『ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル』(社会評論社)を基に、レーニン時代の「赤色テロル」といわれる弾圧体制を明らかにしてきた。
 今回は、スターリンによる「大粛清」の拠り所となった刑法第58条(反革命罪)について、その成立過程にレーニンが深く関わっていたことを明らかにしていきたい。
 ところで、刑法第58条とは一体どのような法律だったのかを見てみよう。その条文は、『ドキュメント現代史4 スターリン時代』(内村剛介編、平凡社)に掲載されている。
 本題に入る前に、編者の内村剛介(1920ー2009)について、ウィキペディアの記事から、簡単に紹介しておきたい。内村は、1934年に満洲にわたり、敗戦後ソ連に抑留され、11年間を強制収容所(ラーゲリ)で過ごし、1956に帰国する。その後、スターリニズムやソ連の文学思想を、抑留体験から 批判・解読する。1973年、北大教授、1978年から1990年まで上智大学教授を歴任した。
 さて、「反革命罪」の概要を見ていくことにしよう。

 刑法第58条 1926年刑法(抄)1926年11月22日公布
  第一章 国家犯罪
  一反革命罪
 第58条一 労働者農民ソビエト権力、およびソビエト社会主義共和国憲法ならびに連邦共和国憲法に基づいて組織された、ソビエト社会主義共和国連邦、連邦共和国、および自治共和国の労働者農民政府を転覆、崩壊、または弱体化し、もしくはソビエト社会主義共和国連邦の対外的安全、およびプロレタリア革命の基本的な、経済的、政治的、ならびに民族的成果を崩壊または弱体化するすべての行為は、これを反革命とみなす。・・・」p168
 第58条一a では、「最高刑を銃殺、全財産の没収、事情のある場合は10年の自由剥奪」と定めている。
 第58条一b,c,d では、軍人が反革命行為を行った場合、「全財産の没収を伴う銃殺に処す」とされ、本人だけでなく家族や同居者も選挙権を剥奪され、五年間のシベリア流刑とされる。
 第58条二~十四 スパイ行為、反革命の目的をもって公共交通機関や通信機関、水道、公用倉庫などの爆破、放火、破壊行為、ソビエト権力の転覆などの実行を喚起する宣伝、文書の保管、サボタージュ・・・などは反革命とみなされ、銃殺刑、や勤労者の敵であることの宣言、財産の没収、自由剥奪などの社会防衛処分が科せられる。※つまり、反革命罪は、いくらでも拡大解釈ができるということになる。験にこの58条は日本人捕虜のシベリア抑留の根拠ともなった
 
 二ソビエト社会主義共和国連邦にとってとくに危険な行政秩序違反の罪
 第59条一~十三 までは、「行政秩序に反する罪」として「直接にソビエト権力」には向けられていないが、「行政機関または国民経済の秩序ある活動を妨害し、かつ権力機関への反抗およびその活動の阻害、法規への不服従またはその他権力の実力および権威の弱体化をきたす行為と結び付いたすべての行為」とされている。行政秩序違反行為は、鉄道またはその他の交通、通信機関の破壊、殺人、放火などを伴った大衆的騒擾や運輸従業員が作業規程に違反した場合や兵役拒否、有価証券偽造、密輸など幅広く規定されている。

 このような刑法第58条(反革命罪)の草案を準備したのは、外ならぬレーニンであった。『レーニン全集』第42巻、大月書店刊 (p586)には、クルスキー宛の次のような書簡が掲載されている。

「 ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国刑法典施行法草案の補足と同志デ・イ・クルスキーへの手紙

 ・・・第5条、反革命の侵害からソヴェト権力を確実にまもる条件が確立されるにいたるまでは革命裁判所は、刑法典第五八、五九、六〇、六一、六二、六三+六四・・・条に規定された罪にたいして、最高刑罰措置として、銃殺を適用する権限をあたえられる)。(中略)
      同志クルスキー
 私の考えによれば、銃殺刑(国外追放に代えるばあいもある)の適用範囲をひろげることが必要です。メンシェビキ、エス・エル、その他の者のあらゆる形態の活動にたいしては、一ページ下段参照。これらの行為と、国際ブルジョアジーおよびわれわれにたいする彼らの闘争(新聞や派遣員の買収、戦争準備、その他)との結びつきを明らかにするような定式をみつけなければなりません。ご意見をつけて、すぐ返してください。
 五月十五日  レーニン  (1922年5月15日に執筆)                                」

 また、『レーニン全集』第45巻、大月書店刊、(p611)には、次のような書簡が載っている。

「六四二 新経済政策のもとでの司法人民委員部の任務について
                                       デ・イ・クルスキーへ
 一九二二年二月二十日
 同志クルスキー!
 (中略)ソヴェト権力の政敵や、ブルジョアジーの手先(とくにメンシェビキとエス・エル)にたいする弾圧を強化し、もっとすばやい、革命的目的にかなった手続きで、革命裁判所や人民裁判所によるこの弾圧を遂行し、モスクワ、ピーテル、ハリコフ、その他いくつかの重要な中心地で一連の模範的な(弾圧のすばやさと強さとの点でも、裁判所や出版物をとおして、その意義を人民大衆に説明する点でも)裁判をかならずおこない、裁判所の活動を活動を改善し、弾圧を強化するという意味で、党をとおして人民裁判官や革命裁判所員にはたらきかけること・・・(中略) ・・・新経済政策の分野での司法人民委員部内の戦闘的な役割もそれに劣らず重要であるがこの分野での司法人民委員部の弱さと昏睡状態は、いっそう言語道断である。われわれが認めたし、また認めていくのは、国家資本主義だけであること国家とはつまりわれわれであり、われわれ意識的な労働者、われわれ共産主義者である、ということを理解している気配が見られない。したがって、われわれが国家の概念と任務とを理解しているとおりの、国家資本主義のわくからはみだしているあらゆる資本主義を制限し、抑制し、犯罪を現場でとらえて、こっぴどく処罰することを自分の任務として理解しなかった共産主義者たちは、役たたずの共産主義者だと認めなければならないのである。」

 これらレーニンの書簡に見られるように、スターリンによる「大粛清」時に威力を発揮した刑法第五八条、五九条などは、新経済政策のもとで、レーニン自身によって提案されたものであることが明らかである
 つまり、レーニンとスターリンは連続しており、レーニンが敷いた粛清のレールの上をスターリンは粛清列車を走らせたということができるのである。


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  レーニン神話の解体に大きな役割を果たすと思われる著書が、この『ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル(1918~23)』(S・Pメリグリーノフ著、梶川伸一訳、社会評論社刊)である。まずは、簡単にこの書の著者メリグーノフについて梶川氏の解説を聞いておくことにしよう。
 セルゲイ・ペトローヴィッチ・メリグーノフ(1879-1956)は、ロシア革命前、人民社会主義(エヌエス)党員として活動する。エヌエス党は主として都市インテリからなるナロードニキの流れをくむ政党である。エスエルとは違い、テロルを否定する。10月革命を否定し、反ボリシェビキ闘争に関わり、チェーカーに再三逮捕される。その後釈放されるが、国外へ亡命し、ロシア革命と内戦期のソビエトを批判し続けた。この中で最も包括的なボリシェビキ体制批判の書が、ベルリンで発行されたこの『ロシアにおける赤色テロル』(1923年刊)であった。この書は長い間ソ連では禁書とされてきたが、ソ連崩壊前の1990年にロシアで最初に発行された。(p253~254)但し、この書は、当時の「赤色テロル」の生々しい状況を告発しているが、今日の私たちからすれば、分かりにくいので、ここでは巻末の梶川伸一氏による解説を紹介しておくことにしたい。

 (1)「赤色テロル」機関としてのチェー・カーの設立

 ソ連の「赤色テロル」の実行機関として最初に設立されたのが、「チェー・カー」であった。これは、10月革命後、1917年12月20日に「人民委員会議直属の機関」として設立された。この機関の正式名称は、「反革命及びサボタージュと闘うための非常委員会」(チェー・カー)という秘密警察であり、レーニンの主導の下につくられたのである。この秘密警察の任務は三つある。
 ①ロシア全土にわたり、反革命とサボタージュの全ての企てと行動を捜索し一掃すること。
 ②サボタージュ者や反革命分子を革命裁判所に引き渡し、それらに対する闘争手段を精密に詰めていくと。
 ③委員会は抑止的目的の必要とするかぎりにおいて予備捜査を行うこと。
 「一党独裁と「赤色テロル」による支配が展開されるにつれ、チェー・カーはそれへの批判を封じて非常大権を持つに至った。」(p256)
 一般には、内戦が終了し、ネップへによって、農民への支配は融和政策へと移行したと言われているが、逆にチェー・カーの機能は強化されたのである
 1922年には機構再編されゲー・ぺー・ウー「国家政治管理局」となり、レーニン死後もスターリンへと受け継がれていく。

 (2)「赤色テロル」による農村支配

 チェー・カーが絶大な権限を持ったのは、「ボリシェビキの指導と統治に反対する民衆の抵抗を暴力的に押さえ込む必要があり、」民衆への弾圧を「階級闘争の行使として正当化された」(p257) からである。それ故、内戦終了後も大規模な農民蜂起が至る所で勃発したのである。
 「「赤色テロル」は、十月政変直後から戦時共産主義期、ネップ期を経てスターリン時代に至るまで一貫した統治システムとして機能し、「十月革命」直後から多くの悲劇を生み出した。」(p257)のである。
 戦争による穀物生産の縮小や穀物商業の解体によって、食料危機が高まり、中央と地方、都市と農村の対立が激化したのである。つまり、地方の農民が都市に食料を供出しなくなったのである。そこでレーニン等中央権力は、「食料独裁令」(1918年5月)を公布し、軍事部隊による暴力的食料徴発が行われ、穀倉地帯を中心に各地で農民蜂起が勃発する。
 農民蜂起に対するレーニンによる残酷な命令は、レーニン全集(第五版)に収録された電報によって裏付けられている。
 1918年8月初めのペンザ県での農民放棄に対して「クラーク、坊主、白軍兵士に容赦のない大量テロルを行使して、疑わしい者を強制収容所に収監すること」8月9日付「最大限のエネルギー、速やかさ、無慈悲によってクラーク反乱を鎮圧し」「決起したクラークのすべての財産とすべての穀物を没収すること」(p259)との電報がある。また、サラトフ県には、徴収に対して命をかけて責任を取る「二五、三〇人の人質」を富農から取るよう命じている。※ここでクラークとか富農とか呼ばれているのは、「暴力的徴発に抵抗する農民」に外ならない。1919年1月、にボリシェビキ政府は、地方の需要を完全に無視した「食料割当徴発制度を導入した。「1920年11月末に内戦は基本的に終了し」ても、「割り当徴発を基本とする戦時共産主義政策は継続された。」(p263)のである。
 1920年8月下旬にタムボフ県で発生した「アントーノフ蜂起」は、ソヴェト=ロシア最大の農民蜂起であった。蜂起に手を焼いた党中央は、1921年4月にトゥハチェフスキーを鎮圧に向かわせる。「赤色テロル」は「裁判抜きの銃殺、人質をとること、家族も連帯責任を負わされること」など容赦のないものであった。極めつけは、「匪賊が潜む森林を窒素性ガスで浄化し、窒素性ガスの雲が森林全体に完全に飛散し、そこに潜む全員を根絶するよう「毒ガスの使用を命じた。」のである。(p274)

 (3)レーニンとトロツキーによる教会弾圧

 梶川伸一氏が指摘するのは、「飢餓民援助」を口実とする「教会弾圧」であり、レーニンとトロツキーが主導して実行された点である。1922年3月19にち付けの中央委書記のモーロトフへの厳密書簡で次のような指示を与えたのである。「まさに現在、飢饉地域で人が食べられ、通りで何千でないにしても何百の屍体がが横たわっている現在だからこそ、犯罪的抵抗を弾圧するのをためらうことなく、もっとも過酷で容赦のないエネルギーでわれわれは教会貴重品の収用を行うことができる」(p285) この書簡を下に教会弾圧に当たったのがトロツキーであった。
 
 以上の他、無数の事実を積み上げながら梶川氏は、「血まみれの「赤色テロル」はスターリンの独創ではなく、まさにボリシェビキが権力権力を握ったそのときから、その支配の論理と実践を貫く「赤い糸」としてソヴェト=ロシア社会を支配し、ボリシェビキ政治支配の要諦となった。」(p286)と結論づけている。更に氏は、「メリグーノフの記述で特徴的なのは、われわれがソヴェト=ロシア史で常識となっている戦時共産主義からネップへといった時代区分にはまったく触れずに、むしろ連続した現象として「赤色テロル」が語られていることである。」と述べ、「無辜の民衆の血の中でネップが生まれようとしている。」(287)と結んでいる※レーニン、トロツキー神話やネップ神話から未だに醒めやらぬ日本の言論・思想界にとってこの著書『ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル』の持つ意味は重たい。
  

 

 さて、このブログの最後に、敗戦後の東京商科大学がどのように変わっていったのかを見ていこう。
 まずは、インターネットの「如水会ニュース」に投稿されていた「戦時体制下の学問と教育」には、戦時下の概況が次のように記されている。
 「1941ー45年の正味三カ年半は、狂気の時期であった。今から想えば、それは暗い谷間の時代であるけれども、その当時の人たちは、少なくとも表面では「大本営」発表を信じて戦況に一喜一憂し正面から戦争反対を唱えた人たちは、それが大学教授であれば(東大の矢内原忠雄氏のように)職を失う運命にあった。この時期を自分の眼で見ることのなかったリベラル派の上田貞次郎氏のような人でも、十五年戦争が開始したときには、「開戦には賛成できないが、始まった以上は勝たねばならない」と日記に記したのである。太平洋戦中にキャンパスを護り抜いた教授陣も、何らかの形で軍政の執行に(陸海軍の委員会メンバーに連なるなどの形で)協力的な姿勢見せざるを得なかった。」
 いやはや、それにしても「言い訳」にもならない虚言としか言いようがない。あの時代は「暗い谷間」の時代だった。内心は戦争に反対だったが、協力の姿勢を見せなければならなかった。これは正に丸山真男流の「インテリ擁護論」である。しかし、私たちが既に見てきたように、東京商科大学が、中山伊知郎を始めとして、自ら進んで「大東亜戦争」に協力し、積極的に関わっていいたことは、「戦時文献学」的考察から明らかである。私は、そのこと自体を非難したり、否定したりするつもりはない。
 だが、敗戦により状況が一変するや、たちまち変節し、戦時下の言動を「あれは軍部のせいだ」となにもかも軍人・軍部に「戦争責任」を押しつけようとするこの姿勢こそ、「戦後民主主義の虚妄」というべきだろう。
 「如水会ニュース」は、前回までのブログで取り上げた『経済戦略と経済参謀』(ダイヤモンド社)について、次のように述べている。
 「戦争末期の日本政府は、高等商業教育の必要性について否定的であつたその圧力に耐えるためには一層の戦争協力姿勢(ジェスチャー)が必要と思われた。この必要に応えるために設けられた研究グループが経済指導者研究室である。このグループは米谷(まいたに)隆三教授(商法学)の許に教宣活動を展開し、その成果の一つとして小冊子『経済戦略と経済参謀』(1944年)を公刊している。おそらくこれがひとつの背景となって、米谷氏は戦後に教職追放の対象となり、大学を辞任した。」
 「経済指導者研究室」が、「戦争協力姿勢(ジェスチャー)が必要」のため設立されたとか、「このグループは米谷隆三教授の許に教宣活動を展開」したなどと言うのは、事実をねじ曲げるものである。
私たちが既に検討したように、「経済指導者研究室」は、「このグループ」などと言うような大学の一部の活動などではなく、ましてや「教宣活動」などでは全くない。正に髙瀨学長を始め、東商大を挙げての事業であったのである。
 さて、ここで、米谷隆三の教職追放について触れておこう。「如水会ニュース」によれば、「経済指導者研究室」や「冊子」が教職追放の原因になったというのだが、それならば、何故、室長を務めた中山伊知郎が不適格者とは認定されなかったのだろうか?他に東商大からは、金子鷹之助、常磐敏太が教職追放となっている。なぜ、この三名が教職不適格となって追放されたのか?その基準が全く分からない。
 要するに東商大は、この三名をスケープゴートにすることで、GHQの追究をすり抜け、一橋大学と看板を塗り替え、戦時中に培った「政財界の人脈」をフルに活用しながら、日本を代表する「経済系大学」となった。正に、東京帝大と並んで「戦後利得」大学と言えるのである。
 

 今回は、「第三章 経済戦略について」を読んでいくことにする。

 中山は、「経済戦略」の定義について、次のように述べる。
 「経済戦略と云ふのは戦争経済を目標とする闘争の要求、手段、指導原則に付いての体系を云ふ。さう云ふ闘争がどう云ふ要求をもつか。それが如何なる手段に依つて行はれるか。その要求と手段とを結合した指導原則は何であるか。斯う云ふことが経済戦略の主たる問題になるだらうと思ひます。」(p45)
 中山は、以上の点を踏まえ、「総力戦」が「初めから一つの総力を具現するところの戦争」であることから「経済戦」「思想戦」「政治戦」は、その一面に外ならないことを強調する。このような戦略の全体性は、「第一には各種戦略間の相互依存関係として現れ」「第二には手段の相互依存関係」として現れるという。
 しかし、中山は、このような各種戦略間が、「手段の相互依存関係」にあるとしても、「経済戦固有の闘争手段は何であるかを」考えて置く必要があるとして、「敵の戦争経済の攻撃に用ひられる経済手段」として、「特殊の対外経済活動」を挙げる。つまり、対外経済関係、貿易関係、通商関係・・・は全て攻撃手段となり得るとして、注目すべきものを三点挙げる。
※今、米中間で繰り広げられている「貿易戦争」は、唯単に「貿易摩擦」の延長ではなく、「本物の戦争」が既に始まっているのだと捉えなければならない。
  
   ①ダンピング ②貿易の独占 ③通貨管理
 
 中山は、「攻撃手段」に対して「防衛手段」を四点挙げている。

   ①資源の確保ー特に重要なのは、必要現在量の貯蔵の調査、特に戦略資源の調査
   ②輸送路の確保と輸送力の強化ー船舶の問題はその中心をなす
   ③労力の確保、賃金政策、労務管理、戦時労力確保の全体を指す
   ④インフレの防止ー公債の消化を図り、貯蓄を促進する、貨幣に対する信頼度を強化する
  
 以上の点を踏まえ、中山は「攻撃的な経済戦略」について「経済戦に於ける直接の目標は、今述べたやうに敵の戦争経済の破壊にある。」(p55)とし、最も重要な手段は「経済封鎖」であると述べる。「経済封鎖と云ふのは敵の戦争経済を、その対外通商関係から遮断して之に依つて敵国経済の抗戦力を弱化し、遂には之を崩壊に導く一切の手段を表象する。」「大規模な近代戦に於て、経済封鎖が経済戦の主要形態になつた理由は二つあります。」(p56)
 その第一は世界経済の発展が、国民経済相互の関係を密接にした為に、世界経済からの遮断そのもが国民経済の活動を萎縮せしめると云ふこと。」にある。「凡そ今日の国民経済の発達と共に、外国貿易関係が密接度を加へつゝある」として、中山はイギリスとドイツの例を挙げ、こう述べている。
 「工業国としての発展は、即ち外国貿易の強化と云ふことになる」「だからさう云ふ対外関係が経済封鎖に依つて遮断されると云ふことになりますと、その遮断の影響は、必ず国民経済に或る弱体化的な作用を及ぼす。特に輸入関係に於ける攪乱は、輸入資材の種類如何に依つては、致命的な国民経済の圧迫を齎す。だから世界経済が斯様な高度な関係にある場合には、経済封鎖は過去の場合よりも、もつと大きな効果を期待させられると云へるのであります。」(p57)
 その第二は、「経済及び技術の高度化が、所要原料の範囲を非常に拡大します為、如何なる国家と雖もその原料資源の全部を自給するものはないと云ふこと」である。「戦略資源の種類が近来の戦争の規模が大きくなり軍需生産と重工業生産とが同時化されると云ふやうな体制になつて来ますと、非常に大きな数量に上らざるを得ない。従来はさう云ふ戦時資源の最大のものは殆んど食糧に限定されて居ましたが、今次のやうな総力戦になりますと資源戦の資源はむしろ重要な鉱物資源の全部を示すやうになる。だから経済封鎖によつてその資源の取得を封鎖することが出来れば、その効果は大きいことは申すまでもありますまい。」(p57)
 このような二つの理由から、中山は「経済封鎖こそ、経済戦の最も有効な手段と言はなければならない。」と言う。ただし、「広域経済圏」が成立すれば、「経済封鎖」の威力は減少すると期待を込めて述べる。
 次に、中山は、経済封鎖にはどういう手段あるのかという問題について、まず、「経済封鎖」には三つの段階があることに注意せねばならぬと言う。
 第一に、「紙上封鎖」と呼ばれる段階である。これは、「主として敵性物資の範囲を法律的にきめて、是等のものを敵国に輸送することを遮断しようとする段階であります。」(p58)
 第二段階は、「実力を発動して事実上一国を封鎖状態に置くことであります。」(p59) 
 第三の段階は、「直接に通商路を破壊する」ー「主として海軍力を以てする通商路の直接的破壊であります。」
 さて、次に中山は、「攻撃的経済戦略経済戦手段として考へられるものは固より経済封鎖だけではない。」(p60)として、「武力に依存する他の破壊手段」を二つ挙げている。
 第一は、「所謂消耗戦術と云ふものをあげることが出来る。」と言う。「是は自ら物質の強大な消耗を伴ふ攻撃を行ふことに依つて敵にも同様な消耗を要求する、これによつて、敵の戦争経済力の消尽を狙うものであります。」(p60) 
 第二は、「直接武力に依る敵戦争経済の破壊と云ふものをあげることが出来る。」「これは現時の大戦に於て特に顕著な工業都市の爆撃に示されてゐるものであります。」

 次に「防御的な経済戦」について中山は、こう述べている。
 経済封鎖に対する自国経済の防衛の方策は、経済封鎖の目的自体から、自ずから二つに別れる。 
 ①対外的には、経済封鎖の網を打破すること、②対内的には経済体制を強化して、自国力を増加し、以て経済封鎖を無効ならしめることである。

 ①対外的経済封鎖を打破する手段としては、経済封鎖が実力を以て行はれる以上、武力を以てしなければならないが、しかし、経済的に中立国、若しくは友好国を獲得することも又有効である。
 ②対内的経済封鎖を無効ならしめる対策というのは、代用品の発明による技術の促進労働者の能率増進未開資源の開発経済機構の戦時再編成による生産力の増進などが考えられる。

 ただ、中山は「今次の大戦のやうな大規模な戦争に於ては、一国の経済力だけで戦争経済を支へていくと云ふことは、場合に依つて非常に困難である。」(p63)と言い、「之を補充すべき広域圏の建設と云ふのが、必然の要請になつて来る。その意味に於て広域経済圏の確立と云ふのものは、それ自ら最も強力な対経済封鎖の手段である。」として、「戦争と同時に、斯様な形に於ける経済建設が平行して進行しなければならない」と主張する。
 また、中山は「戦争経済に対する直接的侵害に対する防衛、是は攻撃手段が武力であります以上、当然主として武力に依存しなければならない。」(p63)しかし、「経済に対する直接の打撃に対しても経済的手段を以て対抗すべき道が全くないわけでは」ない、と言い、生産工場の分散移転住宅地区の疎開などの例を挙げる。 

 最後に中山は、「経済戦略の運営」について、三つの時期に分けて考えることができると述べている。(p64)
 まず、開戦に至るまでの期間、次に戦争の進行している期間、最後に戦争の終末期の三つの時期である。そして、戦争の終末期にあっては、「広域圏に立脚する自給体制の確立、現に大東亜戦争について申しますれば、大東亜共栄圏の自給圏の確立、さう云ふことが戦争の終末に対して恐らく最も大きな力を持つであらうと云ふことは推測に難くない所であつて、敢て経済力のだけの問題でない。」と中山は述べ、「併しその建設的な内容といふものは、是は主として経済力の運用に依つて得られなければならないので、従つて、その点に於て、経済戦略の一つの重要な面がこの段階にも現れると云ふことを考へえてよいのであらうと思ひます。」という言葉で、講義を締めくくっている。


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 昭和7年の中山伊知郎 ー全集第三集ー 
                                                                                                     
 さて、「第二章 戦争経済の課題」を読んでいくことにしよう。
 「戦争経済」というのは、中山によれば、「絶えず前線の要用に応ずる、さうして併せて戦時国民生活の確保を目的とする経済の体制である。」という定義であった。つまり、「絶えず前線を支持して、さうして消耗があつた場合にはこれを再建する。」(p27)ということである。この課題が、特に近代の総力戦に於いて、特に認められるようになった理由を、中山は二つ挙げている。「一つは近代戦の規模が拡大した」こと、「もう一つは其の兵備が高度化した」ことだという。「戦争規模の拡大、従つて又所要兵員の非常な膨張がありますと、それだけでも既に銃後経済を新しく再編成しなくてはなりません。」(p28)
 「第二の兵備の高度化、即ち戦争の機械化と云ふことは前線に於ける消耗の程度を非常に大きくする。従つて経済に対しては常に其の生産力の強大化の要求になつて現れるのであります。この場合それが単に量的な強大のみならず、質的にも高度の技術的基礎を必要とする点に注目せねばなりません。即ち高度の技術的基礎を確保すると云ふことは、経済的には非常に種類の多い大量の資源を必要とすると云ふことに他ならぬ。従つて、斯様な強大な軍需要求が高度の技術要求と一緒になつて来る場合には、銃後経済の全体を矢張り戦争経済として再編成する必要が起つて来るのであります。」(p28)
 中山はこのように述べ、ポッソニーの考え方を紹介する。
 「戦争らしい戦争を行う為めには、どうしても五百万の軍隊を動員しなければならぬ。所が防御的戦争にせよ、攻撃的戦争にせよ、五百万の軍隊を戦争に維持する為めには、或る比率に於て銃後の労働を必要とする。其の比率は防御的戦争の場合には大体一対八攻撃的戦争の場合は一対十乃至一対十二、斯う云ふ計算をして居ります。」(p29)と述べ、論評を加えている。

 戦争経済の問題の第二は、「戦争経済は何から成立して居るかと云ふ問」である。
 中山の論述において注目すべきは、「基本的な構成要素に就いては戦争経済と云ふものも一般の経済と違はない。」(p37)と述べる一方、「一般的な経済の構成要素に着目する以外に、更に必要に応じては其の視野を拡張して、特に戦争経済に寄与する一切の要素を充足する必要がある。」として「潜在的経済力」なる概念を提出する。
 中山によれば、一般的な経済の場合、経済の構成要素として上げられているものは、既に現実の経済過程に於いて、金銭的に評価され、取引されているものー即ち、既に現れているものに過ぎない。しかし、実際に「経済力を戦力化するに当たりましては、判断の標準は常に貨幣価値より実質価値に置かれるから、従来の要素を考へるだけでは足りない。実際の経済力を戦争経済力に転化するに当たりましては縷々経済以外の要因の作用を考慮しなければならぬ。」(p36~37)
 中山は例として、「企業整備に当たりましては実際の結果は政治力に依存する。政治力の大小が企業整備の効果を左右する。」(p37)ということを考えなければならないと述べ「是等の要因は常時にあつては直接に経済の構成要素ではない。」が、しかし「唯戦時に於て初めて経済力の要素として登場すると云ふ意味に於て之を潜在的な要素と呼ぶことが出来る。」とする。
 では、「潜在的経済力」とはどういうものか。中山は次の六点を列挙する。

 ⑴に、領土の形状並びに位置。
 ⑵に人口の資質。
 ⑶に経済構造。
 ⑷に企業経営の規模並びに独占体制の発展性。
 ⑸には物価或いは貨幣金融問題。
 ⑹に同盟、中立その他の対外関係。 


 以下、上記の六点について、中山の論述の要旨をまとめてみることにする。
 まず、⑴の「領土の形状並びに位置」について。
 土地の形状に関して海岸線の長短ーこれは平時に於いては直接に大きな問題ではない。しかし、戦時に於いては、それが経済封鎖にとって重要な問題になる。
 世界交通に於ける一国の領土の位置、之も平時に於いては貿易船舶関係以外には余り考えられないが、戦時に於いては、交通、特に資源確保の為の海上運送に関して、又空爆に対する防衛価値に対して多大の考慮を必要とする。
 ⑵の「人口の資質」について。
  人口は労働力の供給源泉としては、平時でも経済構成要素の最大のものである。しかし、人口の経済に対する関係は決して量的側面だけには限られない。量的側面では、各種職業間の配分比率都市農村間の配置状態などは、戦時状態では特に重要である。
 一般に戦時統制の運用に付いて統制の徹底化に人口の素質が最も重要な要因である。特に人為的に変化し得る要因として教育の程度、組織、慣習の影響というように非常に広範囲に亙る。
 ⑶の「経済構造」について。
 特に工業生産の地位、工業生産の高度化の程度が戦争経済の根幹を為す。第一次世界大戦に於いて、ドイツが軍需生産力を持ち得たのは、輸出工業国であったからである。つまり、輸出工業が軍需工業に転換する可能性を持ったことである。農業と工業の比率、もっと一般的に云うと経済に於ける各種産業の比率の問題、このような問題の研究は、各国の経済力を比較し、又共栄圏の経済を全体的に考えて行くために欠くことはできない。
 ⑷の「企業経営の規模並びに独占体制の発展性」について。
 戦争経済の能率というのは、戦時に於ける企業の合理化の程度に依存する。この合理化の程度ということは、一面では個々の企業の内部の問題であると同時に他面では、それよりも強い意味に於いて企業集中の問題である。企業単位の拡大が生産能率の増進に多大の効果を持つことは一般に認められているところであるが、平時の独占企業乃至独占組織の発展の程度というのも、この意味で戦争経済の上で重大な問題を提供している。特に、中小工業が非常に多いということを特徴としている日本の経済の場合は、その集中乃至合理化の可能性が重要な意味を持つ。
 ⑸は、「物価或いは貨幣金融問題」について。
 ここでは、特に金融統制の効果を左右する基本的要因を取り上げる。統制技術の巧拙は、第一に問題となる。単に技術の巧拙というだけでなく、統制に対する国民の協力、熱意、それから経済倫理、経済常識の程度、特にインフレーションに対する抵抗力、これらの問題については、従来の経済学の中で取り扱っていた所の物価、金融問題という面以外の面がある。国民性、国民の経済観というものもここで考える必要がある。
 ⑹は、「同盟、中立その他の対外関係」について。
 対外関係というのは、それが生産貿易関係に現れる面については、一般の経済について今までも考慮されている。戦時のアウタルキー(広域経済圏)においては、その関係に特に注目すべき新しい点がある。というのは、戦時においては、輸出入が貿易の利害のみによって調整されない主として与国関係、敵国か与国(味方)かという関係を通じて確保される。

 第三に戦争経済の課題であるが、これは一番重要なことである。課題は戦争経済の内容からして当然二つになる。その一つは「集中」、他は「育成」である。
 「集中」の課題について、特に注意すべき点は、速度である。統制の必要は極めて多く速度の要求から来る。「勿論集中自体にも大きな統制計画を必要とするのでありますが、速度を加へていくと計画的な統制が更に強化されねばならない。」(p42)
 「育成」については、「今日の戦争が本当の意味の総力戦であつて、ストックでは出来ないといふことを考へねばならぬ。」「生産力自体で以て戦はなければならぬことになりますと、一方には戦争を行ひながら、他面に於て経済力の育成をやつて行くと云ふことが非常に重要な問題になる。  

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