
加藤陽子氏は『戦争まで』の中で、一九四一年七月二日の御前会議で決定された「帝国国策要綱」をとりあげ、次のように述べている。
「この日の決定の内容について、教科書や年表でどのように説明されているかといえば、対ソ戦を準備する一方、対英米戦争をも辞さない、というもので、北進と南進の両方を狙ったもの、と説明されることがおおいです。」(p374)と述べ、続けて「情勢の推移に応じ北方問題を解決」「大東亜共栄圏を建設し、もって世界平和の確立に寄与」するとの二つの方針を確認し、「対英米戦を辞せず」の文言が要領の中の言葉として出て来ると書いている。しかし、加藤氏は、「七月二日の決定」が英米戦、あるいは対ソ戦も意図していた、即ち日本にとって「引き返し不能点」なのだと思うかもしれないが、実は違うのだと述べる。つまり氏は、「対英米戦を辞せず」という言葉は、海軍軍令部などが、北進論を唱える松岡外相や陸軍参謀本部を押さえるためだったと主張する。(p376)
ここで、七月二日の「帝国国策要綱」に戻れば、「大東亜共栄圏を建設し、もって世界平和の確立に寄与」するという方針こそ「南進論」であり、その帰結が「対英米戦」であったことは明らかである。ところが、加藤氏は、この「大東亜共栄圏」なるものが、一体、どのような人々によって唱えられたものであるか、については何も語っていない。※加藤氏に限らず、日本の近現代史家は、「大東亜共栄圏」とはいったい何だったのか、を真正面から考察の対象とすることを避けているように思われる。余程都合の悪いことがあるのに違いない。
さて、いったい、「大東亜共栄圏」なるものは、どのような人々によって何のために作り出された思想なのだろうか。今回、こうした私の問いに正面から答えてくれる雑誌が冒頭に掲げた『季刊 東亜政治と東亜経済』(中央公論社)である。昭和一六年七月に刊行された同誌は、「東亜共栄圏の諸問題」を特集している。この雑誌が刊行された昭和一六年七月は、独ソ戦が勃発し、松岡外相や陸軍による北進論が盛んな時期でもあったというのは、偶然とは言えない。
この雑誌の「刊行の辞」が最後の方に載っているので紹介しておこう。
「今次聖戦の目的は東亜新秩序の建設、東亜共栄圏の確立にありといはれる。」「聖戦完遂こそは現代日本に課せられた世界史的使命達成の前提条件である。」「新東亜建設の大業は長期、悠遠なる規模のものであり、今はその発足の過程にあつて、その礎石をおきつゝある歴史的な時期である。その基礎構築の強靱適確の度合が東亜の歴史の志向並に進行を如何に規定するか、誠に重大である。それ故にまた、科学的な東亜認識と東亜問題に対する総合的科学的研究とが喫緊の要請となつている。」「然るにも拘らず、かかる要請を充たし得る総合的な研究資料刊行物の如何に少なきことか。」「ここに於て小社は識者の熾烈なる欲求に応るため、「東亜政治と東亜経済」(季刊)の刊行を企図し、その罅隙の一部を埋めんとするものである。」(p224)
これを素直に読めば、東亜新秩序の確立=新東亜建設=聖戦が現代日本に課せられた使命であるというものであり、この目的の達成のためには「科学的東亜認識と東亜問題に対する総合的科学的研究が」緊要であるというように、南進論=「大東亜共栄圏」を強く後押しするものとなっている。
このことを念頭に、目次を見てみることにしよう。

この目次から、執筆者とその内容を概観してみよう。
巻頭論文として、蠟山政道の「世界政治と東亜共栄圏の新しき地位」が掲載されている。蠟山政道は、日本を代表する政治学者であり、一九三九年の平賀粛学に反発し、東京帝大を辞職したリベラリストでもある。
次に「東亜共栄圏農業問題」と題して、四名の研究論文が掲載されている。
A論文の執筆者は、東畑精一である。東畑もまた日本を代表する経済学者である。中山伊知郎とともにシュンペーターに学び、帰国後は、昭和研究会の設立にも関わった経歴を持つ、日本の近代経済学の第一人者である。
B論文の鈴木小兵衛は、満鉄調査部に勤務する農村調査を専門とする所謂「左翼前歴者」である。この論文執筆後は、「合作者事件」で検挙されている。
C論文の大上末広も満鉄調査部員である。昭和一八年九月の「第一次満鉄調査部事件」で検挙され、その後獄中で死亡している。
D論文の伊藤律は、著名な共産党員である。満鉄調査室に勤務し、昭和一六年九月に検挙されている。終戦後は、共産党「所感派」に属し、徳田球一の亡命先の中国へ渡る。伊藤は、所謂ゾルゲ事件に関わり、ゾルゲや尾崎を密告した当局のスパイの汚名を着せられていた人物でもある。
次の「東亜資源論」は、著名な経済学者であり政治家でもあった蜷川虎三である。一九五〇年から一九七八年まで社共の推薦で京都府知事をつとめている。
そして、「東亜共栄圏の民族問題」の執筆者である細川嘉六は、ジャーナリストであり、またマルクスの研究者でもある。戦後は、日本共産党の参議院議員として活動している。昭和一七年の「横浜事件」で検挙されている。
以上のことから、「大東亜共栄圏」=南進論を学問的に基礎づけたのは、蠟山、東畑、蜷川などのアカデミズムを代表する革新派の学者や鈴木、大上、伊藤律、細川などの満鉄調査部内のマルクス主義者及びそれと何らかの関わりのある在野の研究者であったことが分かる。※詳しい論証はまだだが、この時期の「改造」「中央公論」「文芸春秋」などの論調、朝日・毎日・読売新聞をはじめとする大新聞も同様の傾向が窺える。

上の画像は、平野義太郎・清野謙次共著の『太平洋の民族=政治学』(日本評論社、昭和17年2月刊)と、土屋喬雄著『日本国防国家の史的考察』(科学主義工業社、昭和17年1月刊)である。平野義太郎といえば講座派マルクス主義、土屋喬雄といえば労農派マルクス主義の代表的論客として日本資本主義をめぐって論を戦わせた学者達である。
平野義太郎は、『太平洋の民族=政治学』の序文で次のように述べている。
「われわれは今、大東亜共栄圏の建設に邁進しつつあるが、この大東亜共栄圏の建設といふ政治活動は日本を盟主とし太平洋圏内の諸民族を積極的に協力せしめることにより、自給自足の広域経済を確立し、従来米英帝国主義の壟断のために妨げられて来た諸資源を開発すると共に、米英の国際的侵冠に対しては、軍事的に共同防衛し、従来、米英等の搾取対象であつた諸民族を米英等の経済的には有無相通じ、又、地域的に近接するわれら兄弟諸民族が善隣友好し、精神的にも文化的にも、相契合し、東亞を興隆せしめることを根本理念とする。」(P1)
つまり、「大東亜共栄圏の建設」という聖戦へと日本を向かわせた勢力は、所謂右翼と一線を画す「革新派」・「マルクス主義者とその転向者(偽装転向者も含む)」ということになる。
これは、以前このブログでも取り上げたが(「加藤陽子氏「戦争まで」を読む スパイ尾崎の「評価」を巡って⑦⑧」を参照されたし)加藤陽子氏が盛んに持ち上げている尾崎秀実は、『改造』昭和一六年一一月号に「大戦を最後まで戦ひ抜くために」と題する次のような論文を寄せている。
「当局は日本国民率ゐて第二次世界大戦を戦ひ切る、勝ち抜けるといふ大きな目標に沿ふて動揺することなからんことである。日米外交折衝もまたかゝる目的のための一経過として役立たしめた場合にのみ意味があるものといひ得る。又今日日本には依然として支那問題を局部的にのみ取扱はんとする見解が存在がしてゐる。これは世界戦争の最終的解決の日まで片付き得ない性質のものであると観念すべきものであらう。私見では第二次世界戦争は「世界最終戦」であらうとひそかに信じてゐる。この最終戦を戦ひ抜くために国民を領導することこそ今日以後の戦国政治家の任務であらねばならない。」(『尾崎秀実時評集』東洋文庫、平凡社、p407~408)
※私は「コミンテルン陰謀説」に与するものではないが、尾崎のこのような言説の意図は、日本を対ソ戦ではなく対英米戦の「聖戦」へと向かわせようとするところにあったのは疑いない。
さて、軍内部で北進か南進かで揺れるこの時期にマルクス主義者たちは、何故に「大東亜共栄圏論」を高唱するに至ったのか?※「東亞共栄圏」という言葉自体は松岡洋右が最初に使ったとされているが。言うまでもなく、「大東亜共栄圏」とは、対英米戦争によってアジアの植民地を解放するという「聖戦」によって勝ち取られるべきものであり、従って、「南進」を後押しするものであったことは自明である。伊藤律や細川嘉六などの明らかなマルクス主義者が、「東亜共栄圏」構想を強く打ち出したのは、ナチスドイツによる対ソ攻撃に乗じて日本がソ連を挟撃する「北進」を阻止する意図が込められていたと考えるのが至当であろう。つまり、「大東亜共栄圏」論は、少なくとも対ソ戦を阻止するために役立ったのである。別の角度から見れば、なぜ、当時の日本が「大東亜戦争」へと向かったのかといえば、日本が右傾化したからではなく、左傾化したからだともいえるのである。
加藤陽子氏は、なぜこうした事実を無視するのだろうか?確かにこうした事実を取り上げることは、加藤氏にとっても、また、加藤氏の身内の「左翼」アカデミズム界にとって都合の悪いことではある。