決戦憲法関ヶ原歴史編のblog

ニーチェ哲学的見地によれば、「憲法9条」を頑なに墨守する思考は、一種の「宗教」であると言える。私は、日本と日本国民を敵としない「憲法学」「歴史学」を追究する。

2018年12月

CIMG0298
 ①『婦人之友』昭和20年4月号

 CIMG0304
 ②『婦人之友』昭和19年3月号

CIMG0305
 ③『婦人之友』昭和19年3月号

CIMG0306
 ④『婦人之友』昭和19年3月号

CIMG0302
 ⑤『婦人之友』昭和20年4月号

CIMG0303
 ⑥『婦人之友』昭和20年4月号

 ①は、3月10日の東京大空襲の直後に書かれ、4月号の『婦人之友』誌に掲載された、羽仁もと子の巻頭文である。「人事を尽くして天の大道を行く」と題されたこの文で、羽仁もと子は次のように述べている。
 「ともすれば一刻も安き心地のない時が来ました。今無事だと思つても、何人の上に何が起るか分らないからです。しかも我々はその不安の中にゐて、何れの時代の日本人もいまだ嘗て経験しなかったほどの自信と落ち着きをしつかり持ってゐなくてはなりません。不安に駆られて浮足立てば、あらゆる面で敵に負けるにきまつてゐるからです。驕る大敵を打破る力は、唯ほんたうの自信と落ちつきから出て来る余裕と冷静さを以て、各家庭各職域において、一人々々目覚めるばかりの活動をしつゞけること、唯そのことばかりです。国民悉く特攻隊になることです。」※羽仁もと子は、あの悲惨で非人道的な東京大空襲を経験しても尚、このように呼びかけるのである。「戦争をしてゐれば有利なこともまた不利な場合もある筈です。その度に一喜一憂、揣摩憶測やさまざまの見透しをつけようとするのは間違ひです。人の心と人の力の要らざる消耗になるばかりです。浮足立つとはそのことです。誡めなくてはなりません。」※要するに、この先どうなるのかなどと心配せず、人事を尽くして天命を待てと言うのである。
 「天は我々にその大道示して、お前達の歩むのはこの道だ、この道だと知らせてゐると同時に、極く手近いことにはさまざまの前兆を見せて下さいます。」「神のみ業と責任と慈愛の中に生き、その大道と近き兆を示されて、そこから思う存分に考へ思ふ存分に働いて行かれるこの生命です。心から天を信じて、神のなすべき領分を神に任せ、人のなすべき領分を領分を本気になつてすればよいのです。」※羽仁は最後にこのような言葉でこの文を結んでいる。
 「勝つか負けるかの心配はいりません。勝つための天の大道を行けばよいのです。いつ勝てるのだらう、それは神様にお任せして、どこまでも唯勝つための努力をしませう。神の意志と経綸によつて創り出され、数千年来養はれ育まれて盛んになつてゐるこの国この民族です。悔いべきを悔い改むべきを改め、無力は必ず有力にして、どうかこの国を護りたまへと祈り求めることが、どうして聴かれないことがありませう。神によつて与へられた宿命を信じて喜び、この国に生まれたものが心からこの国のためにすべてを献げることが、天の大道だからであります。山の如き自信と、海のような豊かな心で超人的な敢闘をつゞけませう。」

 羽仁もと子のこのような言葉は、戦時下の行為は総て悪であり暗黒であったとする「戦後的な思考」からすれば、「悲痛な叫び」や「愚かであさはかな祈り」としか思えないかもしれない。しかしながら、私は、羽仁もと子のこの揺るぎない「信仰心」の中に、かの戦争を戦った日本女性の真の姿を見出すのである。

 ②は、疎開についての対談である。この対談では、疎開について都市住民の理解が得られず、なかなか進まない現状を憂いをもって語られて」いる。

 ③④は、本土への空襲がまだ本格的でなかった昭和19年初めの家庭での防空体制での例である。

 ⑤⑥は、東京大空襲後の防空壕の建て方とその生活についてのアドバイスである。

 このブログは今回で終えることにしたい。日本が「大東亜戦争」と名付けたあの戦争は、女性によって戦われた戦争でもあった。家事・育児・出産、隣組による協力、食糧生産、工場労働と・・・女性による献身的な努力なくしては戦えない戦争であった。この戦争を通して日本の女性は家庭だけではなく職場や社会でも活躍することとなった。正に、戦時下の日本の女性は輝いていた!のである。

 

CIMG0244
 ①『婦人之友』昭和19年3月号

CIMG0245
 ②『婦人之友』昭和19年3月号

CIMG0285
 ③『婦人之友』昭和18年11月号

 ①は、『婦人之友』昭和19年3月号の表紙である。女子挺身隊を描いた吉岡堅二の日本画である。『婦人之友』は、一流の日本画家の絵を表紙の絵に使っているので、それだけ見ても素晴らしいものである。

 ②は、同号に掲載された「撃ちてし止まん」と題する羽仁もと子の巻頭文である。昭和19年代に入ると、戦局が悪化し、日本本土への空襲の危険がせまる。羽仁は、日本の女性に次のように呼びかける。
 「敵が神州本土に近づいて来ました。事重大になればなるほど、国民一人々々が大切なものになつてゆきます。私どもはお国のためにこの大切な自分を粗末にしてはなりません。空襲必至のこの場合、大切なこの身体に不注意のために敵弾を受けるやうなことがあつては相済まないことです。」
 「さまざまの場合の不可抗力な犠牲に、驚きあわてぬ覚悟があろうか。愛する家族も隣人も、いざ空襲といふ日には、悉く唯戦友です。危ぶみ合はずかばひ合はず、どこまでも励まし合って、誰もが真に日本人らしく戦ひませう。このやうにして生命も財産も捧げ尽すならば、君の馬前にみ盾となって討死をしたのです。それが我々の本望です。日本人としてそれ以上の死に方はありません。」
 「我々は一人々々ではありません。上に、皇統連綿の、今上陛下を戴く一億の団体です。本気になつて有無相通ずることを忘れてはなりません。隣組を通じそれぞれの結びつきを通して、一つの麺麭も分け合つて食べませう。」「私どもは今一人一人この思ひこの仕方において、皇国日本を鮮やかに現出すべき立場におかれています。何といふ光栄何といふ重責の中に我々はあるのでせう。併し我々の同胞にその自覚を持たない人も少なくないことを、私は実に悲しみます。貯蓄の代りに闇買ひまでして、人のものまで食つてしまふ人があります。その手先になつて金銭を得るために、買出し部隊になつてゐる無智無恥の気の毒な人々があります。あり余る時と力を、あれがないこれがない、家の娘は工場にだけは出す気はないといふやうな饒舌に費して、どんなにそれが恐しいこと、不忠不義なことであるかを省みることの出来ない人々もあります。」
 「天佑によつてわが皇国は勝ちに向つて進みつゝあると、自らいひ得る一人々々になりませう。」

 ③は、「女子勤労動員について語る」と題した、武井厚生次官と羽仁説子との対談記事である。女子勤労動員と女子勤労挺身隊の違いなど、武井次官の分かりやすい解説があり、参考になる。武井次官の説明を要約すると次のようになる。

 1ー女子勤労動員について
 男子のように「徴用令」のような義務化ではなく、「自発的意志によって職場に出てもらう」というのが政府の意図である。

 2-女子勤労挺身隊とは
 これまで「勤労報告隊」として女子青年団が工場で数日働いたり、女学生の短期勤労奉仕や町会や職業別組合で週に何回か奉仕に出るというのがあった。これだけでは生産力としては不十分である。そこで、今回設けられた「挺身隊」では、期間は、1年~2年で、同じ職場に続けて働いてもらう。挺身隊の形式は画一化せず、同窓会単位、あるいは大日本婦人会、青少年団によって地域的に作ってもらうことを勧める

 3-挺身隊の勤労の種類は
 役所や工場、その他女子に出来うる職種ならば何でも良いが、なるべく重点的に最も急を要する所から配置したい。第一に、飛行機工場、軍や政府の作業庁がある

 4-挺身隊の保健の問題
 採用時の検査の外、年2回の健康診断がある。結核の問題は、非常に注意を要するので、政府としても力を入れて対策をやっていく。 

 
CIMG0281
①『婦人之友』昭和17年6月号


CIMG0279
②『婦人之友』昭和19年2月号


CIMG0280
③『婦人之友』昭和19年11月号

 
 平成28年に開催された東京都「昭和館」の「隣組」特別展では、隣組について次のように説明されています。
 「昭和15年(1840年)9月、内務省により町内会・部落会の整備拡充がはかられるとともに、その下位組織として隣組(隣保班)が組織化されました。隣組は行政の指示により、配給切符の割当や防空活動、資源回収などといった活動を行い定期的に「常会」が開かれ組内の意思疎通の機会を設けるなど、戦時体制下での国民生活の基盤となる活動を行っていました。一方で、隣組は組員同士の監視、思想の統制などといった、ひとりひとりの生活を窮屈に感じさせる側面も併せもっていました。」

 こうした説明を見ると、「隣組」は、上から命令されやむを得ず命令に従っていたかのような印象をうける。「組員同士の監視、思想の統制などといった」という表現は、あたかも日本がファシズム国家であることを前提にした、戦後歴研流の偏った見方である。
 そこで、実際に「隣組」は、どんな活動をしていたのかを、『婦人之友』誌を通して明らかにしていきたい。

 ①は、「隣組のよき発達のために」と題して行われた会議の記録記事である。
 参加者の中から特徴的な意見を拾い上げてみることにしよう。

 松岡さんー私は性格的に人のお世話が出来ない方なので、実は主人がこれはお国へのご奉公だからといって組長をおひきうけして参りました時は、何か荷厄介のやうに思ひ一時は家中で反対もしたのですけれども、やつてをりますうちに、これは好きとか嫌いとかですることではなく、どうしてもしなければならないことだと思ふやうになりました。友の会(※「婦人の友」の読者でつくる会)で目ざしてゐるやうなことが隣組の中にもつと強化されてゆかなければならないと思ひます。殊に女の人達が互にふれ合ふ一番近い社会は隣組からだと思ひます
 Bさんー私の家の近所には、三つの隣組がありますが、組長さんのやり方でそれぞれの隣組の色合がずゐ分ちがってゐるやうでございます。 一つは軍人の組長さん。責任感が強く、一生懸命だが、他の人が何でもその方に委せっきりになってしまい、組長さんが休むと常会も流れてしまう。もう一つは八軒の長屋の隣組だが、世話も行き届いていて、まとまりがあるが、やはり、他の人は力を出さず、ただ組長さんのいひなりに動いている。
 もう一つは女の組長さんの隣組です。「私一人の力では、とてもよく出来ませんので、困ることがあるとすぐお隣の方にご相談して智慧を拝借します。」あまり組長さんが一人で責任を感じすぎたり、自分の思うとおりにしようとしたりすると、かえってみんなの力が合わないようです。
 Dさんー隣組が盛んになったのはいろいろの品物が配給組織にになつて来たころからでございますね。私も初めの頃組長をしてをりましたが、配給にことなど何もないころはお集まりをしてもなかなか揃はなかつたのでしたが、お米やお砂糖の配給がはじまつて、その御相談といふことになると皆さんが出ていらつしやるやうになりました

  話し合いはこのあと、「空襲に備へて隣組の強化」について話し合われている。ここからは、隣組がどういう組織で、女性がどのように関わっていたかが分かる。決して「相互監視や思想統制」のためのものではなかったのだ。
 
 ②は、「女組長さんのめざましい働き」と題する記事である。ここで取り上げられているのは、品川御殿山の隣組である。この御殿場山の隣組は九軒であり、斉藤隆夫議員(反軍演説で有名な)や政界財界の有力者からなっている。組長は、三井物産の今井一氏の奥様だという。この隣組の特色は、防空に非常に熱心であるということである。
 政財界人の広い屋敷が多く、隣組の全面積を合わせると三千坪近くにのぼり、住んでいる人は四〇人ほどと少なく、広い面積を小人数で守らなければならないということから、防空演習に熱心に取り組むことになったという。訓練は、朝九時から九時半と定められ、その時、家にいる人で都合のつけられる人は皆出るという約束になっている。訓練は、ガスマスクの着脱、注水訓練、屋根に登る訓練、救護訓練などである。技術の熟達だけでなく、回を重ねるごとに皆が一つになり、いざという場合の団結力になる。

 ③は「隣組工場への全主婦の参加をめざして」と題する記事である。隣組工場というのは、隣組の主婦が中心となって、町内に何カ所か工場(作業場)を設け、飛行機の部品をはじめ様々な軍需品などを生産するものである。
 この記事では、東京府内の五地区の隣組工場の代表がそれぞれの工場の状況を報告している。

 立川鵬翼工作隊ー立川市内に43の作業場をもち、約800人の家庭婦人が働いている。作業は、飛行機部品の板金作業である。作業場は普通の家を改造したものや不用になった喫茶店を利用したり、また、平和産業の工場を転用して使っているものなどいろいろである。
 荒川区三河島正庭一丁目町会工場ー仕事は皮ぬいで、兵隊さんの弾入れ、馬の手綱、将校さんのゲートル等を作っている。
 渋谷区長谷戸衆楽町会工場ー軍服の縫製の仕事をしている。
 小石川区小日向壱町町会工場ー仕事は海軍軍人の肩章を作る仕事である。
 淀橋区下落合町会工場ー軍用革手袋の制作である。
 亀井さん「隣組と申しますのは国の端から端まで一千百四十萬世帯を貫く大きな組織でございますが、この隣から隣へと連らなる家庭婦人の労力を一つの組織体の下に上手に活用したならば、国家の莫大なる一つの労力の給源となります。この「工場にあらざる工場」に拠る家庭婦人の労力をもつと重要視して大きく活用する指導機関を国の中央地方から町会隣組へと一系統に設けて頂きたいといふことを協力会議でも私は申したのであります。」
 


CIMG0241
 ①『婦人之友』昭和19年1月号

CIMG0234
 
②『婦人之友』昭和17年12月号
 CIMG0235
 ③『婦人之友』昭和17年12月号

 CIMG0253
④『婦人之友』昭和19年11月号

 戦後の日本では、戦時下の軍人や軍隊は、やたら威張っていて、すぐに暴力を振るうという、近寄りがたい野蛮なイメージが定着している。果たして、戦時下の女性にとって、軍人や軍隊は、どのような存在だったのだろうか。
 ①は、『婦人之友』誌に掲載された、永野修身軍令部総長と羽仁もと子との「知行一致」と題する対談である。羽仁は「知行一致の秀れて立派に出来てゐるのは日本の軍隊でせう。銃後は残念ながら及びません。」と言うと、永野総長は「言はれる通り、知行一致といふことは軍隊ばかりでなく、特に今日の場合すべての仕事にも教育にも最も大切なことです。」と応じている。
 ②は、「大東亜戦争一周年を迎へて」と題する東条英機首相の言葉が掲載されている。「今や日本は国家の総力を挙げて米英が屈服するまで、飽くまでも戦ひ抜かんとして居るのであります。私は茲に重ねて日本女性の皆様方の今日迄の並々ならぬ努力に対し心から感謝の意を表するものであります。」「此の上共、私を捨て、己を空うせる母性愛、不屈不撓の強靱なる底力に輝く日本婦徳の特性を発揮して愈々御奉公の誠を致されんことを此の意義ある大東亜戦争一周年の記念日を迎ふるに当り私は切に願って已まないものであります。」
 ③は、「軍神加藤少将夫人を訪ふ」と題する記事である。記事は、有名な加藤隼戦闘隊を率い、ビルマで戦死した加藤建夫の夫人の家を訪ね、話を聞くという内容である。加藤隼日本では何度か映画化されている。迂闊にも最近知ったのだが、加藤建夫は、北海道旭川出身だった。
 ④は、『婦人之友』の冒頭に掲載された「神風特別攻撃隊」を讃える前田夕暮の短歌である。

   回天の大き力はいたりけり敵艦隊を撃滅しけり

  吾はもよ童のごと聲あげぬあな雄々し神風攻撃隊は

 ※このような短歌を横書きで表記しなければならないとは、痛みに耐えない。横書きは一種の国語の破壊現象なのだろうか。
  
 羽仁もと子は『主婦の友』昭和19年11月号の巻頭言「勝利はわが手にあり」と題して、次のように呼びかけている。「これら大敵の中で、この決戦をどう戦ふか。一人々々が精兵となって、更に更に一億の心と力を一つにしなくてはなりません。男も女も各々が大元帥陛下の兵士であります。その熾烈なる忠誠が一つになつて、史上無比なる新しき皇国軍隊を創り出さなくてはなりません。」「どのような紆余曲折に逢はうとも、根強く明らかに天の意志に頼りませう。我等と共により以上の深きみ心を以てこの国を護り給ふ、祖宗の神霊に祈りませう。」 
 
 戦時下の日本の女性は、軍人や軍隊と意識の上では一体となっていたのだ。

CIMG0225
①『婦人之友』昭和17年4月号

CIMG0277
②『婦人之友』昭和17年12月号

CIMG0273
③『婦人之友』昭和17年5月号

CIMG0275
④『婦人之友』昭和19年3月号

 戦時中のテレビドラマを見ると、出てくる女性の服装がいかにもみすぼらししいものが多い。たいていは、水玉模様のもんぺ姿が定番らしい。仮に農村はそうだとしても、東京のような都会では、どうだったのだろうか。
 ここにあげた例は、『婦人之友』に掲載されていたものである。戦時下という非常時だからといって日本の女性は服装にこだわっていなかった、などとはいえないのである。戦時下にあっても日本の女性は、自分で手作りの服装を工夫し、おしゃれをしていたのである。
 
 ①は、「子供の衣類六年間の記録」として、秦家の長女が国民学校へ入学するまでの衣類日記を掲載したものである。
 ②は、「若い人のために冬の働き着兼非常時服」と題する手作り服の提案である。スカートをボタンがけにして、ズボンのようにできるように工夫している。「自転車に乗ったり、高いところに上ったりするのにも便利です。」と説明されている。尤も、戦後の日本の女性は、スカートのまま平気で自転車に乗っているが・・・。
 ③は、資生堂の洗顔クリームの広告である。この時代、女性は、化粧を禁止されていたというような誤った情報があるが、そんなことはない。戦時下にあっても、日本の女性は、洗顔クリームや美白クリーム、ビタミン剤の摂取などによって美しい肌を保つように気をつけていたのである。
 ④は、挺身隊として働く若い女性向けに考案された作業服の例である。挺身隊については、後ほど取り上げるとして、「着て働きよく、見て清楚な作業服は工場の生活をどんなに明るくするでせう。」という説明があるように、女性ができるだけ働きやすい職場環境づくりが目指されていたことが窺える。

CIMG0233
①『婦人之友』昭和17年10月号

 
CIMG0239
②『婦人之友』昭和18年11月号


 CIMG0271
③『婦人之友』昭和17年12月号   


 CIMG0272
④『婦人之友』昭和20年2月号

 戦時下の献立と言えば、すいとんだとか、芋ばっかり食わされていた、という暗いイメージで語られることが多い。確かに、戦時下の食糧は、量的にも質的にも不足していた。しかし、そんな中で、比較的に多く生産されたのが、サツマイモやジャガイモなどの芋類や小麦粉、大根などの野菜、ニシンや鯖などの魚類などであった。戦時下にあっては、各家庭では、こうした限られた食材を工夫を凝らして美味しく飽きの来ない献立を工夫して食べていたのである。

 ①は、「配給のうどんのおいしい食べ方」として掲載された記事である。この記事には、うどん汁、海苔巻き、うどんのすき焼き、みそ汁、寄せうどんの酢味噌かけ、コロッケ、グラタン、うどんのあべ川、かりんとうなど11種類もの「うどんの献立」が載っている。

 ②は、「大根の完全活用」と題して掲載されている戦時料理研究家の澤崎梅子さんの記事である。この記事では、一本の大根を7つの部位に分け、それぞれの部位ごとにここまで完全に活用した献立が考えられている。おそらくこの記事を読んだ全国の百万人以上もの『婦人之友』の読者(友の会)の多くが、こうした献立を参考にしていたことだろう。

 ③は、「一種十品料理1.さつまいも」と題する澤崎さんの料理記事である。この記事の中で特に目を引いたのが「揚げ煎餅」や「挽き茶芋餡入り汁粉」などのサツマイモのおやつである。

 ④は、昭和20年2月号に掲載された子ども向けの3日間の献立表である。昭和20年2月と言えば、敗戦間際で、食糧事情も逼迫した時期であったが、それでもこれだけの献立が可能であったというのは、驚きである。

 ここまで来て、私は、複雑な心境にとらわれている。今の日本は、確かに豊富な食材に恵まれている。果たして戦時下のように、子どもたちのために、これほど工夫を凝らした献立が提供されているのだろうか


CIMG0269



CIMG0232


CIMG0264

 
 CIMG0265

 戦時下の日本は、深刻な食糧不足に見舞われていたと伝えられている。そのため、配給にだけ頼るのではなく、農村へ食糧の買い出しに行ったと言われている。
 戦時下の食糧問題は、暗いイメージだけで語られることが多いのだが、果たして真相はどうだったのか。
 今回ブログにアップさせていただいた『婦人之友』掲載の記事の画像からは、戦時下の東京のような都会にあって、日本女性がどのように工夫を凝らして食糧問題へ取り組んで様子が分かるのである。

 ①の画像(『婦人之友』昭和19年1月号)は、「協力増産一年の計」と題する記事である。この記事は、東京の荻窪井荻西最寄地区で、200坪の畠を所有する塩沢さんが中心となって、五家族が協力して、十九人分の野菜を一年間の計画を立てて生産に取り組むという内容のものです。
 ②の画像(同誌、昭和17年10月号)は、「鉢植えの果物栽培」の記事として、池袋の歯科医、山根さんの取り組みが紹介されている。栽培されているのは、ミカン、ゆず、レモン、キンカン、柿、いちじく、梅、オリーブなどである。
 ③の画像(同誌、昭和17年5月号)は、隣近所4軒の厨芥(台所から出る野菜のくずなど)で二羽の鶏を飼っているという記事である。この家では、鶏小屋も何もなく、庭に放し飼いにしていたが、五ヶ月間で二〇〇個の玉子を生み続けているという。
 ④の画像(同誌、昭和17年10月号)は、45家族が組合を作って多摩川の河川敷を開墾し、2500坪(約0.8ヘクタール)の畠を作ったという記事である。
 
 『婦人之友』には、この他にも、下水や防火用水でフナやコイを飼った例や、家庭で鴨を飼った例なども紹介されている。
 これらの記事から考えると、戦時下にあっては、東京のような都会でも何らかの形で家庭菜園に取り組んでいたことが分かるのである。その主役は、もちろん女性であったに違いない。
 




このページのトップヘ