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 今回は上記のようないささか刺激的なタイトルを掲げさせていただいた。資料として用いさせていただいたのが、田嶋信雄氏の『ナチス・ドイツと中国国民政府 一九三三 ― 一九三七』(東京大学出版会)である。※但し、いつも断り書きを述べさせていただいているように、この著書に述べられている内容の総てに私は賛成している訳ではない
 加藤陽子氏は『戦争まで』において、次のように述べている。
 「蒋介石の面白いところは、少なくとも二つ、多いときは五つくらいの選択肢を記して、物事を考えるのですが、蒋介石はどうしてドイツ・日本と組むという道を考えるのか。」(p286)
 加藤氏が取り上げているのは、いつの時点かというと、1940年11月15日の蒋介石の日記の記述である。
 ところが、ここで加藤氏は、どういう訳か、1936年にドイツと中国が結んだ「中独条約」を持ち出すのである。
「―ドイツから中国に、軍事的な指導をする人が行っていたという話を聞いたことがあります。」(p286)
「よくご存知ですね。中国に、最大の軍事顧問団を送っていた国はドイツでした(ドイツ国防軍の父と呼ばれるゼークトが、その弟子であるファルケンハウゼンなどを顧問団長として送っていました)。日本との全面戦争へ備えるため、蒋介石は1934年あたりから準備していましたが、その助言者がドイツにほかなりませんでした。」 「日独防共協定というものが36年11月に締結されていたので、日本側としては、ドイツは日本の味方でしょうと、何度もクレームをつけますが、なかなかドイツはドイツは中国援助を止めない。」(p286~287)
「それもそのはず、ドイツと中国は、36年4月、中独条約という、ドイツの経済と軍事にとって大変に実り多い条約を締結していたからです。この条約は、中国に借款を供与して、大量のドイツ製武器の購入費にあててもらうというものでした。35年から36年のドイツ武器輸出総額の57.5%、額にして二千万ライヒスマルクが中国向けでした(これに対し日本向けの武器輸出額は、中国向けの一%にも満たない一七万七千ライヒスマルクです)。」(p287) 加藤氏のここまでの記述は、冒頭に掲げた田嶋信雄氏の『ナチス・ドイツと中国国民政府』(※加藤氏が参照文献として挙げている)にほぼ沿った内容となっている。ところが、加藤氏はこの記述に続けて次のような文章をつけ加えるのである。
「お得意さんであった中国とドイツは、軍人も仲がいい。ドイツという仲介者がいれば、日本と戦争をやめる話し合いを安心してできる。このような気持ちは合理的な判断に裏打ちされていますね。」(p287)
 加藤氏のこの文章を読めば、蒋介石が「中独条約」をドイツと結んだのは、ドイツを仲介者として日本と戦争をやめる話し合いをするためだったということになる。しかし、そうなると加藤氏が「蒋介石が日本との全面戦争へ備えるためにドイツから軍事顧問団を送ってもらっていた」という自らの記述内容とは、真逆のことを言っていることになるのだが・・・。
 それでは、田嶋氏の著書『ナチス・ドイツと中国国民政府』では、一体どのようなことが述べられているのだろうか。昭和一二年、盧溝橋での日中の軍事衝突をきっかけに、戦線が中国全土に拡がった理由は、これまでいくつか指摘されている。田嶋氏の研究は、これまであまり重視されてこなかった(というよりも殆ど隠されてきた)中独関係に着目することによって、蒋介石の背後にいたナチスドイツ、とりわけドイツ国防軍との関係を浮き彫りにした点で評価できるものである。氏はこう述べる。
 「一九三六年四月八日に調印された中独条約は」「孫文以来の国民党親独政策の集大成であるとともに、ナチズム体制のドイツ国防省が全力を傾注して実現を目指した、国防経済政策上の重要な成果であった。」(p4)
 氏は「中独条約は、成立過程のみでなく、執行過程もまた極めて重要であった。」(p4)として、一九三六年夏のライヒェナウ(元独国防省中将)は、中国軍の強化策を次のように打ち出した。」という。
 第一に独逸国防軍の指導下で中国軍を組織的に再編成すること。蒋介石に直属する「組織局」を設置し、そのもとに軍事部門と経済・技術部門を置き、それぞれの部門に現役の独逸参謀将校からなる顧問本部を設け、蒋介石に対する直接の諮問機関とする。
 第二に、六個師団・一〇万人からなる中国中央軍を設立し、のちにそれを三〇万人にまで拡大する。さらに、それぞれの師団の配属地に軍需産業を育成し、各師団に必要な軍備を供給する。軍需産業は、原料生産から武器・弾薬の製造にいたるまでの生産を担当する化学・金属工業のコンビナートを構成する。※この点で注目されるのは、ゼークトや武器商人クラインらが広東省に武器工場を建設した(広東プロジェクト)がある。その内訳は、大砲工場、砲弾・信管・薬莢工場、毒ガス工場、防毒マスク工場であり、契約総額は五五〇万香港ドルに上ったという。(p55)尤もこの広東プロジェクトのドイツ側の狙いは、レアメタルータングステン鉱(対戦車砲弾に使用)にあった面もある。
 第三は、独逸からの緊急の対中国武器輸出計画である。さしあたり四隻、全体としては五〇隻の高速魚雷艇を緊急輸出する。加えて、多数の沿岸防衛用一五センチ砲台、機雷封鎖設備を供給し、揚子江を敵艦隊から遮蔽できる。
 第四は、こうしたさまざまな近代兵器の運用のため、中国人留学生を独逸に派遣し、機械技術者として養成すること。
 こうした独逸国防軍の急激な対中接近の理由は、これまで「ヴァイマール共和制の下でソヴィエト連邦およびソヴィエト赤軍との秘密の軍事協力関係を構築し、多くの利益を享受していたドイツ国防軍は、ナチズム政権成立により従来の独ソ軍事協力の放棄を強いられ、あらたにソヴィエト連邦のさらに東の国、すなわち中国を重要な軍事的パートナーとして選択することとなったのである。」(p4)
 ライヒュナウの訪中から一年後、昭和一二年(一九三七年)に勃発した日中戦争では、「日本軍が戦った中国軍部隊の多くは、ファルケンハウゼン(・・・)らドイツ軍事顧問団により訓練され、ドイツ製兵器で武装されていた。とりわけ一九三七年八月一三日から始まる第二次上海事変に投入された軍隊は、ドイツ軍事顧問団が永年精魂を込めて鍛え上げた精鋭軍であり、日本軍はここで大きな抵抗に遭遇することになる。」(p6)
 「蒋介石の直轄する中国エリート軍は、ゼークトの建軍思想(一〇万のエリート軍建設と三〇万軍への拡大)により建軍され、ドイツ国防軍から同じ編成の、最新式の武器を供給され、ドイツ国防軍(在華軍事顧問団)によりドイツ式の訓練を受け、その軍事戦略思想により指導され、ドイツ製武器プラント工場からさまざまな補給を受けることとなった。こうして中国軍は、ドイツ国防省により、いわば「兄弟軍」ともいうべき位置づけを与えられることになる。「第三帝国」の軍拡路線と中国の軍拡政策は、有機的かつ密接に結合されることとなった。」(p198)
 さて、盧溝橋事件の二週間後、在独日本大使館参事官の柳井恒夫は、ドイツ外務省幹部ヴァイツゼッカーを訪問し、ドイツの中国への武器輸出への抗議をおこなったのであるが、(p324)ヴァイツゼッカーは、取り合わず、東京駐在大使に電報を打ち、日本の行動を強く批判したのである。「日本の行動は中国の団結を阻害し、中国の共産主義の拡大を促進し、最終的には中国をロシアの側に追いやるので、むしろ防共協定と矛盾していると見なし得る。」ドイツから中国への武器輸出について、「ドイツから中国への武器輸出は、日独交渉の対象とはなり得ない。」「日本にはドイツの対中国武器輸出に抗議する権利はない」と言い放ったという。(P325)
 当時同盟通信社上海支局長であった松本重治は、一九三八年二月、「日中戦争は、一面、日独戦争である」  
と喝破したが、まさしく日中戦争は、その初期においては、「第二次日独戦争」の性格を色濃く帯びていたのであった。」(p6) 
 以上のことを念頭において、下記の統計表を見ることにしよう。この表は、田嶋氏の『ナチス・ドイツと中国国民政府』に掲載されているものである。(p194)先に引用した加藤氏の『戦争まで』の中のドイツから中国への武器輸出に関する記述は、この表に依拠しているのである。

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 上の表からは、一九三七年(昭和一二年)にドイツの武器輸出額が大幅に伸びていることが分かる。その主要な輸出先が中国であったことも明瞭に見て取れる。※当時のドイツの国税収入は一五〇億ライヒスマルクほどだった。だが、中国とドイツの関係も、翌年には突然終わりを告げる。一九三八年二月、ヒトラーは、ヨーロッパの侵略に乗り出すため、クーデター的な手法を用いて「国防省首脳を粛清」し、外務大臣ノイラートを更迭して親日派のリッペントロップを任命し、イタリア、日本との「防共協定強化」に乗り出すのである。中国軍事顧問団の本国召還、対中武器輸出停止などによって中国とドイツは「事実上国交を断絶することとなる。」(p330)のである。※この年ドイツはオーストリアを併合しており、中国市場の喪失を補ったことになる。
 加藤陽子氏は、『戦争まで』において、せっかく田嶋氏の著書を取り上げるも、田嶋氏が述べているその深刻な内容については、残念ながら全く関心がなかったようである。加藤氏が述べる「ドイツという仲介者がいれば、日本と戦争をやめる話し合いを安心してできる。」などという蒋介石の合理的判断なるものは、田嶋氏の著書からは残念ながら見いだせなかったのである。