さて、このブログの最後に、敗戦後の東京商科大学がどのように変わっていったのかを見ていこう。
まずは、インターネットの「如水会ニュース」に投稿されていた「戦時体制下の学問と教育」には、戦時下の概況が次のように記されている。
「1941ー45年の正味三カ年半は、狂気の時期であった。今から想えば、それは暗い谷間の時代であるけれども、その当時の人たちは、少なくとも表面では「大本営」発表を信じて戦況に一喜一憂し、正面から戦争反対を唱えた人たちは、それが大学教授であれば(東大の矢内原忠雄氏のように)職を失う運命にあった。この時期を自分の眼で見ることのなかったリベラル派の上田貞次郎氏のような人でも、十五年戦争が開始したときには、「開戦には賛成できないが、始まった以上は勝たねばならない」と日記に記したのである。太平洋戦中にキャンパスを護り抜いた教授陣も、何らかの形で軍政の執行に(陸海軍の委員会メンバーに連なるなどの形で)協力的な姿勢を見せざるを得なかった。」
いやはや、それにしても「言い訳」にもならない虚言としか言いようがない。あの時代は「暗い谷間」の時代だった。内心は戦争に反対だったが、協力の姿勢を見せなければならなかった。これは正に丸山真男流の「インテリ擁護論」である。しかし、私たちが既に見てきたように、東京商科大学が、中山伊知郎を始めとして、自ら進んで「大東亜戦争」に協力し、積極的に関わっていいたことは、「戦時文献学」的考察から明らかである。私は、そのこと自体を非難したり、否定したりするつもりはない。
だが、敗戦により状況が一変するや、たちまち変節し、戦時下の言動を「あれは軍部のせいだ」となにもかも軍人・軍部に「戦争責任」を押しつけようとするこの姿勢こそ、「戦後民主主義の虚妄」というべきだろう。
「如水会ニュース」は、前回までのブログで取り上げた『経済戦略と経済参謀』(ダイヤモンド社)について、次のように述べている。
「戦争末期の日本政府は、高等商業教育の必要性について否定的であつた。その圧力に耐えるためには一層の戦争協力姿勢(ジェスチャー)が必要と思われた。この必要に応えるために設けられた研究グループが経済指導者研究室である。このグループは米谷(まいたに)隆三教授(商法学)の許に教宣活動を展開し、その成果の一つとして小冊子『経済戦略と経済参謀』(1944年)を公刊している。おそらくこれがひとつの背景となって、米谷氏は戦後に教職追放の対象となり、大学を辞任した。」
「経済指導者研究室」が、「戦争協力姿勢(ジェスチャー)が必要」のため設立されたとか、「このグループは米谷隆三教授の許に教宣活動を展開」したなどと言うのは、事実をねじ曲げるものである。
私たちが既に検討したように、「経済指導者研究室」は、「このグループ」などと言うような大学の一部の活動などではなく、ましてや「教宣活動」などでは全くない。正に髙瀨学長を始め、東商大を挙げての事業であったのである。
さて、ここで、米谷隆三の教職追放について触れておこう。「如水会ニュース」によれば、「経済指導者研究室」や「冊子」が教職追放の原因になったというのだが、それならば、何故、室長を務めた中山伊知郎が不適格者とは認定されなかったのだろうか?他に東商大からは、金子鷹之助、常磐敏太が教職追放となっている。なぜ、この三名が教職不適格となって追放されたのか?その基準が全く分からない。
要するに東商大は、この三名をスケープゴートにすることで、GHQの追究をすり抜け、一橋大学と看板を塗り替え、戦時中に培った「政財界の人脈」をフルに活用しながら、日本を代表する「経済系大学」となった。正に、東京帝大と並んで「戦後利得」大学と言えるのである。
まずは、インターネットの「如水会ニュース」に投稿されていた「戦時体制下の学問と教育」には、戦時下の概況が次のように記されている。
「1941ー45年の正味三カ年半は、狂気の時期であった。今から想えば、それは暗い谷間の時代であるけれども、その当時の人たちは、少なくとも表面では「大本営」発表を信じて戦況に一喜一憂し、正面から戦争反対を唱えた人たちは、それが大学教授であれば(東大の矢内原忠雄氏のように)職を失う運命にあった。この時期を自分の眼で見ることのなかったリベラル派の上田貞次郎氏のような人でも、十五年戦争が開始したときには、「開戦には賛成できないが、始まった以上は勝たねばならない」と日記に記したのである。太平洋戦中にキャンパスを護り抜いた教授陣も、何らかの形で軍政の執行に(陸海軍の委員会メンバーに連なるなどの形で)協力的な姿勢を見せざるを得なかった。」
いやはや、それにしても「言い訳」にもならない虚言としか言いようがない。あの時代は「暗い谷間」の時代だった。内心は戦争に反対だったが、協力の姿勢を見せなければならなかった。これは正に丸山真男流の「インテリ擁護論」である。しかし、私たちが既に見てきたように、東京商科大学が、中山伊知郎を始めとして、自ら進んで「大東亜戦争」に協力し、積極的に関わっていいたことは、「戦時文献学」的考察から明らかである。私は、そのこと自体を非難したり、否定したりするつもりはない。
だが、敗戦により状況が一変するや、たちまち変節し、戦時下の言動を「あれは軍部のせいだ」となにもかも軍人・軍部に「戦争責任」を押しつけようとするこの姿勢こそ、「戦後民主主義の虚妄」というべきだろう。
「如水会ニュース」は、前回までのブログで取り上げた『経済戦略と経済参謀』(ダイヤモンド社)について、次のように述べている。
「戦争末期の日本政府は、高等商業教育の必要性について否定的であつた。その圧力に耐えるためには一層の戦争協力姿勢(ジェスチャー)が必要と思われた。この必要に応えるために設けられた研究グループが経済指導者研究室である。このグループは米谷(まいたに)隆三教授(商法学)の許に教宣活動を展開し、その成果の一つとして小冊子『経済戦略と経済参謀』(1944年)を公刊している。おそらくこれがひとつの背景となって、米谷氏は戦後に教職追放の対象となり、大学を辞任した。」
「経済指導者研究室」が、「戦争協力姿勢(ジェスチャー)が必要」のため設立されたとか、「このグループは米谷隆三教授の許に教宣活動を展開」したなどと言うのは、事実をねじ曲げるものである。
私たちが既に検討したように、「経済指導者研究室」は、「このグループ」などと言うような大学の一部の活動などではなく、ましてや「教宣活動」などでは全くない。正に髙瀨学長を始め、東商大を挙げての事業であったのである。
さて、ここで、米谷隆三の教職追放について触れておこう。「如水会ニュース」によれば、「経済指導者研究室」や「冊子」が教職追放の原因になったというのだが、それならば、何故、室長を務めた中山伊知郎が不適格者とは認定されなかったのだろうか?他に東商大からは、金子鷹之助、常磐敏太が教職追放となっている。なぜ、この三名が教職不適格となって追放されたのか?その基準が全く分からない。
要するに東商大は、この三名をスケープゴートにすることで、GHQの追究をすり抜け、一橋大学と看板を塗り替え、戦時中に培った「政財界の人脈」をフルに活用しながら、日本を代表する「経済系大学」となった。正に、東京帝大と並んで「戦後利得」大学と言えるのである。