CIMG0689

CIMG0697









 









CIMG0692

 毎回思うのだが、朝のNHKドラマは、酷い内容だ。特に今回の古関祐而の生涯を扱った「エール」は、酷い。何故酷いか?登場人物からして、現代の若者がタイムスリップしたドタバタコメディを繰り広げるだけで、時代背景も満州事変から日中戦争(支那事変)そして「大東亜戦争」に至る時代の臨場感が少しも伝わってこない。
 これが古関祐而の生涯をドラマ化したものである(一応フィクションだとことわってはいる)が、こんな軽薄な作り話は、日本を代表する作曲家である古関に対する冒涜であるのみならず、この時代を生きた日本人に対する冒涜ですらある。古関の自伝『鐘よ鳴り響け』(集英社文庫)に照らして朝ドラ「エール」を視ると、その薄っぺらさに、憤りを通り越してどっちらけに白けてしまうのは私だけではないだろう。
 なるほど、古関を一躍有名にしたのは、「勝ってくるぞと勇ましくー」との歌い出しから始まる「露営の歌」であった。だが、この曲に込められた哀調を帯びたメロディーは、古関が妻と共に「満州旅行」で203髙地や旅順の戦いの後などの古戦場を見学し、「力で奪う国の領土争いの悲惨な犠牲の痛ましさ」(自伝p65)の感情であった。
 母親の手紙では、「婦人会で出征兵士の見送りにいくと、皆が小旗を振って、お前の作った歌ばかり歌います。」近所の人たちも「息子さんの作った歌ですってねえ」と声をかけられ、晴れがましい気持ちだ。五年前、お前が東京に出たときは、親類中が悪口を言っていたが、この頃は手のひらを返したようにチヤホヤします。と書いている。この時、古関は、ようやく親孝行ができたとうれしかったという。
 昭和12年12月12日、南京が陥落した時、東京でも提灯行列が行われ、コロンビアレコードから社員や芸術家が参加し、古関も提灯行列に加わった。この提灯行列には、「露営の歌」が行進曲として使われたという。(p70)
 古関は、翌年の昭和13年に「露営の歌碑」が京都嵐山に建立されたエピソードを紹介している。
 碑面には 「露営の歌 勝って来るぞと 勇ましく 陸軍大将 松井石根」という文字が刻まれている。古関は、終戦後、「この碑が進駐軍に撤去されているのではないのか」と懸念しながら、嵐山を訪ねたところ、その碑は「苔むしても見上げるばかりに厳然と気品のある姿で建っていた。」「思いもかけぬ敗戦となり、戦犯となられて死刑に処された松井石根大将の温顔や、その苦衷が想われ、”勝ってく来るぞと勇ましく”と歌って生命を賭して行かれた人々、その戦争で失われたものの大きさが、一度に込み上げてきた。」(p72)と綴っている。  

 さて、今回のブログでは、NHKの朝ドラの批判が狙いなのではない。NHKの前身である「日本放送協会」が運営するところのラジオ放送が、昭和12年に始まった「日中戦争」をどのように報道していたのか?その実態を明らかにするとともに、ラジオ放送が戦争に与えた影響を考察することにある。
 考えて見ると、ラジオ放送と戦争との間には、想像以上に密接な関係がある。新聞は、読者に「視覚」を通して訴えかける。そこには、「読む」「考える」「批判する」という読者の余地が残されている。しかし、ラジオは、「聴覚」を通して視聴者の内面に直接訴えるものであり、その「プロパガンダ」あるいは「アジテーション」の効果は、数段増す。視聴者国民は、家庭に居ながらにして数百万人が参加する集会の場に半ば強制的に参集せしめられる。国民の「戦争意思」(国論)の形成にあたっては、「書かれた言葉」(新聞)よりも「語られた言葉」(ラジオ)がより重要となる※かのナチスドイツは「ラジオは、総統と国民を結合せしめる紐帯」であるとして、政治の最も重要な機関として之を利用していた。ナチスドイツに心酔していた近衛文麿とその内閣がラジオ放送を如何に重視していたかは想像に難くない。
 ところで、当時のラジオの受信契約件数は、どのぐらいだったのだろうか。実は、昭和10年・200万件、昭和11年・250万件、昭和12年・300万件、昭和13年・350万件と、日中戦争の拡大とともに大巾に伸びていたことが分かる。
 宮本吉夫著『放送と国防国家』(日本放送出版協会)によれば、「昭和十二年五月八日を以て、ラジオの聴取に加入してゐる数が三百万人を突破した。」(p283)という。「この三百万と云ふ数字は、大体受信機の数であるから、従って仮に一つの受信機によつて、五人の人々が聴いてゐるとして、実に千五百万人が、ラジオを聴いてゐることとなるのである。内地の人口を七千万人とすると大体五人につき一人がラジオに親しんでゐることになるのである。」もちろん、ラジオの普及率は、都市部と郡部とでは大きな開きがある。昭和十三年の統計によれば、世帯平均の普及率は29.4%であるが、都市部では49.8%である一方、郡部では17.3%と低かった。※不思議なことに、NHKの朝ドラには、都会なのにラジオが登場しない?
 一体、ラジオは、「日中戦争」の開始時期(昭和12年~13年)にどんな報道をしていたのだろうか?『放送と国防国家』によれば、日中戦争(支那事変)勃発以後、ニュース放送上の措置を三点挙げている。(p178~180)

 ⑴ 事変関係その他重要ニュースの全国統制
  ・事変関係及び国家的時局ニュースは全て東京からの放送に一元化された。また、このニュースは、朝鮮、台湾、満州、北支、中支にまで及んだ。
 ⑵ ニュース放送時間の増加
  ・事変発生後、「早朝ニュース」放送(前夜の放送終了時から翌朝までに編集されたもの)が設けられた。昼のニュース、午後4時のニュース、午後9時半のニュースなどは、放送時間が延長されることになった。
 ⑶ ニュース放送の平易化
  ・事変発生後、ニュースが速報であるため、難解な用語があって、一般大衆に理解しがたいため、「今日のニュース」が設けられた。また、事変直後には「ニュース解説」も「ニュースの理解を容易ならしめるため当日の重要ニュースにつき特に詳細な解説を行ひ、国民の時局知識の涵養に資する」ために設けられた。(p180)

 私が注目したのは、日中戦争勃発直後に始まった「ニュース解説」である。この「ニュース解説」の内容が分かれば、当時のラジオ放送の報道内容や報道姿勢がいかなるものであったのかが概観できるのである。というのは、今日のNHkのニュース解説員が担っている重要な役割をこの「ニュース解説」が果たしていたのであり、新聞でいえば「社説」に当たるものであったと解することができる。
 しかしながら、当時の音声記録などは一切残っていない中で、どうやって当時の放送内容を知ることができるのだろうか、と思われる方が殆どであろう。
 だが、それが分かる一級資料が、『放送ニュース解説』(日本放送協会出版)と題する冊子として残されており、私たちも手に取ることができるのである。この『放送ニュース解説』は、日本放送協会が昭和12年7月19日に「ニュース解説」放送を開始して以来、それを収録編集して、販売したものである。これによって当時のラジオの戦争報道の内容を正確に把握できるのである