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 前回のブログでは、ヒトラーの率いるナチ党が「寡頭制」即ち中央集権的な政党である「ドイツ社会民主党」の組織を模倣したものであったという点を取り上げた。今回のブログでは、レーニンの「民主主義的中央集権制」なる党組織が、「ドイツ社会民主党」の寡頭制党組織を模範とし、これを更に強化したものであったことを立証していきたい。そのための資料として取り上げるのがレーニンの初期の代表作の一つである『なにをなすべきか?』(1902年刊)である。私は、この著書の中にこそ、ロシア共産主義革命とその後の共産主義運動を成功に導き、同時に悲惨な結果をもたらした秘密が隠されていると考えるものである。
 最初に注目すべきは、冒頭に掲げられた「・・・党派闘争こそが、党に力と生命をあたえる。党があいまい模糊としており、はっきりした相違点がぼやけていることは、その党の弱さの最大の証拠である。党は自身を純化することによってつよくなる。・・・」というラサールの言葉である。レーニンは、何故にここでマルクスではなくラサールの言葉を冒頭に掲げたのだろうか?
 この疑問を解くために、私は、西尾孝明氏の論攷「ドイツ社会民主労働党成立史」「ドイツ社会民主党の組織問題」(明治大学政経論叢36巻2号)及び安世舟氏著『ドイツ社会民主党史序説』(御茶の水書房)を活用させていただくことにする。
 さて、周知のように、ドイツ社会民主党は、それぞれ2人のユダヤ人が率いる二つの政党が合同して結成されたものである。
 一つは、マルクスを信奉するべーベルやカールリープヒトらが結成した「ドイツ社会民主労働者党」であり、もう一つは、ラッサールが率いる「全ドイツ労働者協会」である。
 私たちが抱くイメージでは、社会民主党の「寡頭制」やレーニンの「民主集中制」は、マルクスに由来すると考えがちである。ところが、西尾孝明氏の論攷「ドイツ社会民主労働党成立史」には、次のような興味深い記述が見られる。
 「マルクスは中央集権的な労働者組織をつくることには当時反対していた。」「一八六八年秋、マルクスはジュヴァイツァ宛の手紙(したがき)の中で、ラッサール派の組織形態を批判し、中央集権的な組織は秘密結社や宗派運動には適しているが、労働者組織にはふさわしくないと述べ、VDA(ドイツ労働者同盟、ドイツ社会民主労働党の前身)の組織を間接的に支持した。マルクスはその際に、特にドイツのように「労働者が子供のころから官僚主義的な規則の雰囲気のうちに生活し、権威やお上を信じ」ているような風土では、中央集権的な労働者の組織は一層望ましくないと喝破しているが、皮肉にもそれから約三十年後の二十世紀初頭、ドイツ社会主義者達は、史上空前の大中央集権組織を形成した。マルクスの杞憂は、まさに現実のものとなったのである。彼がもしその頃まで生きていたならば、果たして前記の大集権化を是認したであろうか。」(p161)
 また、西尾氏は、1869年にザクセン王国アイゼナハで結成された「社会民主労働者党」(ドイツ史上初めてのマルキスト政党)の基本的性格を4点挙げているが、その第一にあげているのが、「この党が極めて民主的な構成になっていた点である。」と述べる。纏めると以下のようになる。
 ・主として選挙区毎に組織された地方支部から毎年代議員が党大会において選出され、重要な決定はすべてそこで行われることになっていた。
 ・党本部は、毎年大会で党員が決める地方におかれることになっていた
 ・党本部は、大きな権限は持たず、べーベルやリープクネヒトのような指導者でも、本部に入らないのが普通だった。
 ・党務の運営は5人の委員会(議長、議長代理、書記、会計および一人の委員)によって遂行される。
 ・5人の委員会の人選はすべて、当該年度党本部がおかれる地方の居住党員間で互選される。

 一方、ラサールの「党組織論」はどのようなものだったのだろうか
 
 安世舟氏著『ドイツ社会民主党序説』(御茶の水書房)によれば、下記のように記述されている。
 ラサールの率いる「全ドイツ労働者協会がザクセン王国のライプチヒで創設されたのは、1863年であった。「創立大会では、ラッサールの主張が協会の行動目標として規約化され」「目的達成の手段も彼の要請に基づいて」採択されたという。(p14)
 また、ラッサールは、協会議長に選任された。「協会の指導は年次大会によって選出される協会議長と24人からなる協会執行部委員によって遂行されることが決定された。しかし、実際は執行部委員がほとんど、ドイツ各都市に分散して居住していたために、委員会の開催は極めて困難であり、かつその上、初代議長ラッサールにかぎって五年の任期が与えられた他に、副議長を任命し、協会資金を自由に使用し、協会の地方組織の集会を指導し、さらに議長の主張を労働者の間に普及させ、協会員から会費を徴収する各地域(・・・)の協会代表を任命する権限が与えられていたので、協会の指導権は実質的にラッサール一人に集中されることになった。」
 要するにラッサールの「全ドイツ労働者協会」は、「ラッサールの個人支配を制度化した権威主義的組織方式をとったのである。」(p14)

 さて、以上の点を踏まえ、レーニンは、「労働者党」の組織形態をマルクスとラサールのどちらの方式に近いのか、「なにをなすべきか」の論述を検討してみることにしよう。
 まず、レーニンは、労働者の組織と革命家の組織とを明瞭に区別し、革命下の組織は①革命を職業とする組織であること、②あまり広範なものでなく③できるだけ秘密なものでなければならない。(P47)と述べている。
 また、レーニンは、労働者の「経済闘争」に依拠した闘いを「自然発生性の拝跪」と批判し、「職業革命家から成り立つ」「全国的な中央集権化された組織」の必要性を力説する。そして、「広範な民主主義的原則」や「選挙制」を厳しく批判する。(p515)そして、「すぐれた秘密機構をつくりだすためには、革命家にすぐれた職業的訓練をほどこし、またもっとも徹底的に分業を行うことが必要である」(p522)
 即ち、少数の優れた職業的革命家が、労働者の自然発生的運動を上から指導する革命政党が「前衛党」なのである
 以上の事から、レーニンの「革命政党組織論」=「民主主義的中央集権制」は、ラサール流の「権威主義的組織」を一層強化したものであったことが証明できよう。
 なお、つけ加えるならば、レーニンの「なにをなすべきか」の書名はラッサールの講演「今、なにをなすべきか」にあやかったものであることは、間違いない。