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 今回は、日本で「進歩的教育学者」として知られる、20世紀アメリカ知識人を代表する哲学者、ジョン・デューイの「全体主義」論を取り上げる。私が依拠するのは、井上弘貴氏著『ジョン・デューイとアメリカの責任』(木鐸社)である。 

 ⑴赤い30年代

 米国の1930年代は、「赤い10年」と呼ばれ、リベラルな知識人は、ドイツやイタリアのファシズムに対抗する「平和の砦」として「共産主義」ソ連を諸手を上げて崇めるようになっていた。しかし、その裏では、1934年のキーロフ暗殺を切欠としてスターリンによる「大粛清」が開始されていた。
 レーニンと共に「10月革命」の英雄であり、スターリンの政敵でもあったトロツキーは、国外追放の憂き目に遭い、ヨーロッパの各地を転々とする亡命生活を送っていた

 ⑵モスクワ裁判・「レオン・トロツキー擁護のためのアメリカ委員会」

 1936年、スターリンによる粛清がピークに達する中、モスクワではジノヴィエフとカーメネフが公開裁判によって処刑され、トロツキーもまたスターリン暗殺謀議の嫌疑によって欠席裁判のなか告発された。(p178)米国のリベラルな知識人の多くは、この裁判を正当なものとして受け入れ、トロツキーを反革命分子として断罪するなど、思考停止状態になっていた。
 しかし、こうした知的状況に抗して、一部のリベラルな知識人の間から、モスクワ裁判の正当性、トロツキーの有罪を疑問視する声が上がったのである。1936年には、「レオン・トロツキー擁護のためのアメリカ委員会」(アメリカ委員会)設立された。この委員会には、デューイやデューイの弟子でユダヤ人のマルクス主義者、シドニー・フックがいた。フックは、後の回想禄で次のように述べている。(p180)

 わたしはスターリンの下でのソ連の政治綱領にきわめて批判的ではあったものの、かれとソヴィエトの体制が、文明生活という布地に織り込まれてきた人間のまっとうさ(・・・)という根本的な規範を侵そうとしているなどと疑ったことはなかった。それ[モスクワ裁判]は道徳的価値が中心にあることを拒否する社会主義の構想は全体主義がイデオロギー的に偽装したものにすぎないということをわたに教えたのである。
 ※フックらの「反共リベラル」のこうした考えは、後に「ネオコン」の源流ともなったと言える。

 「アメリカ委員会」は、メキシコにトロツキーを避難させるとともに、モスクワ裁判の調査委員会を設立し、その委員長には、デューイが就任することとなった。

 ⑶「全体主義」Totalitarianismという用語について

 ここで、「全体主義」という用語が欧米で使われるようになった経緯について、井上氏は次のように述べている。「全体主義」という用語それ自体は、戦間期の1920年代の半ば頃にイタリアでまず出現した。この用語は、ファシズム運動に影響を与えた知識人によって創られ、ムッソリーニによって広められた。英語圏で広範に使われるようになるのは、1930年代の後半になってからである。(p180)

 ⑷トロツキー裁判の調査を巡るデューイvs人民戦線

 さて、井上氏によれば、「アメリカ委員会」のメンバーに対して共産主義者とその同伴者たちは「トロツキー主義者(Trotskyites)」というレッテルを貼って激しい非難と憎悪をぶつけたという。
 人民戦線側による妨害を乗りこえ、1937年、デューイらは、トロツキーから直接弁明を聴取するため、メキシコへと旅立った。
 数ヶ月にわたる調査結果は、400頁もの報告書に纏められ、翌年、『無罪』の題名で出版されている。※近年『トロツキーは無罪だ!』(現代書館)の題名で、日本語にも翻訳出版されている。この調査報告は、「モスクワ裁判はでっちあげ」であること、トロツキーは無罪であることなどの結論が導かれている。
 しかし、人民戦線派(アメリカ共産党を含む)知識人が優勢な米国やヨーロッパでは、影響力を持たなかった。

 ⑸トロツキー調査の意義

 デューイは、調査報告後、「トロツキー調査の意義」というインタビュー記事の中で次のように述べている。
 「自分たちが証明したモスクワ裁判の欺瞞性から引き出された教訓は、革命的マルクス主義の挫折であり、1930年代の経済的困難を解決するためのモデルとして、あるいはファシズムにたいするデモクラシーの擁護の源泉として、ソ連をみることをもはや止めなければならない」。マルクス主義者が権力の移行期において不可欠とみなすプロレタリアート独裁は「プロレタリアートと党にたいする独裁を導いたし」「常に導くにちがいありません」と、デューイは断言する。
 井上氏は、上記のようなデューイの警告は、「マルクス主義から導出される政治戦略のなかにきわめて問題をはらんだ戦術的要素がある」との考えに基づくものだという。その「戦術的要素」とは、「目的はいかなる手段の使用も正当化する」という命題に他ならないと述べる。

 ⑹冷戦下のデューイ

 第二次世界大戦後、米ソ冷戦下における最晩年のデューイの言動は次のような諸点にまとめられる。(p226)
 ①非米委員会の「赤狩り」について
 デューイは「黙認」という消極的な対応であった。
 ②トルーマン・ドクトリン
 デューイはマーシャルプランをはじめトルーマン・ドクトリンを精力的に是認した。アジアへのソ連の拡張を警戒し、朝鮮戦争への国連の支持をとりつけたアチソン国務長官を高く評価した。

 ※こうしたこともあってか、日本のマルクス主義系教育学者の間では、あまり評判がよくない。矢川徳光など「ソヴェト教育学者」は、デューイを帝国主義の手先だと断じていた。