決戦憲法関ヶ原歴史編のblog

ニーチェ哲学的見地によれば、「憲法9条」を頑なに墨守する思考は、一種の「宗教」であると言える。私は、日本と日本国民を敵としない「憲法学」「歴史学」を追究する。

カテゴリ: アイヌとは何か

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  今回は、このブログでも主張してきた、アイヌは「縄文人」の直系の子孫であるとの説が、DNAのゲノム解析から立証されたニュースについて、取り上げてみたいと思う。
 先ずは、冒頭に掲げた四つの「電子ニュース」の見出しに注目していただきたい。
 最初は、「縄文人の起源、2~4万年前か 国立科学博物館がゲノム分析」と見出しがつけられた日本経済新聞の電子版(2019/5/13)である。
 二番目は、「縄文人の女性、お酒強くこってり好き?全ゲノム解析」との見出しで配信された朝日新聞デジタルの記事(2019年5月14日)である。
 三番目は、「縄文人、中国の漢民族と共通祖先を持つ」との見出しの「中国網Japanese.CHINA.ORG.CN」の記事である。
 四番目は、「国後島で竪穴住居跡100軒発見 大半は2300年前 学術交流団」という見出しの北海道新聞電子版の「2019年6月15日」の記事である。
 これらのニュースの見出しには、どれも「アイヌは縄文人の子孫」とは出ていない。しかし、記事を読めば、「アイヌの人々は縄文人の直系の子孫であることが分かるのである。ところが、記事を読んでも、この大事なことが書かれていないのが、二番目の「朝日新聞デジタル」と三番目の「中国網」なのである。
 私は、この件についていくつかの電子ニュースを見てみたが、もっともポイントを押さえて正確に事実を伝えている記事は、最初の日本経済新聞のものであった。
 その主な内容は、次の通りである。※番号や下線は引用者がつけたものである

① 「国立科学博物館の神沢秀明研究員らは13日、縄文人の全ゲノム(遺伝情報)を解析し、縄文人が大陸の集団からわかれた時期が今から約2万~4万年前とみられることがわかったと発表した。」
② 「国立遺伝学研究所や東京大学などと共同で、礼文島(北海道)の船泊遺跡で発掘された縄文人女性の人骨の歯からDNAを取り出して解析した。」
③ 「特定した配列を東アジアで現在暮らす人々の配列と比べた結果、縄文人の祖先となる集団が東アジアの大陸に残った集団からわかれた時期が約3万8000年前から1万8000年前であることがわかった。」
④ 「東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノム10%受け継ぐ一方、海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。」
⑤ 「船泊遺跡で発掘された女性がアルコールに強い体質であったことや、脂肪を代謝しにくくなる遺伝子の変異を持っていたことなどもわかった。」
 
 ④に注目していただきたい。「東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノム10%受け継ぐ・・・」という記述は、何を意味するのか考えてみよう。つまり、日本人の一割は、縄文人の血を引いているということである。また、「北海道のアイヌの人たちでは割合が7割」という記述は、アイヌの人々は、縄文人の直系の子孫であることを証明していると言える。縄文時代から何千年も経て、なお、「7割」という数字が、正にそのことを示している。更に、北海道から遠く離れた「沖縄県の人たちで3割」という、東京のサンプルの3倍の数字は何を物語っているのか。このことは、縄文人が沖縄から北海道まで、日本列島の全域に住んでおり、その後に大陸から弥生人がやってきたことを示している。つまり、今日の「日本文化」は、言語や宗教、習俗も含めて、縄文文化の基層の上に弥生文化が重なって形成されたことを裏付けているとも言えるのである。

 以上のことを念頭に置いて、朝日新聞デジタルの「縄文人の女性お酒強くこってり好き?全ゲノム分析」との見出しの記事を検討していくことにしよう。実は、この記事は、合田禄記者の署名記事なのである。
 さて、合田記者によれば、記事の概要は次のとおりである。
 礼文島で発見された縄文人の女性は、「脂っこい食べ物を食べてもおなかを壊したり、体調を崩したりしないような高脂肪食の代謝に有利な特徴があることがわかった。」「こうした特徴は」「狩猟生活をしなくなった現在の日本人にはほとんど見られなくなっているという。」「当時、中国大陸ではすでに農耕が始まっていたが、縄文人はなお狩猟に頼っていたらしい。」という文の下に、次のような記述がなされている。
 「また、遺伝子の多様性があまりないことから、縄文人は少人数の集団での生活を約5万年にわたって続けていたと推測された。現在の韓国人や台湾の先住民、フィリピン人に近いという。」
 この記述の下には、昨年の分析結果から、この縄文女性の目や髪、肌の色などの特徴や、頭蓋骨からの復元像を公表していたという。そして、神沢研究員の「古代ゲノム研究で常に参照されるデータになる。現代人にみられる遺伝的な病気の起源を知ることにも重要だ」という話で締めくくっている。
  この記事を読んだ読者は、一体どう受け止めるだろうか。
 先ず第一に、神沢研究員らの縄文人のゲノム分析の研究の狙いは、縄文人と現在の日本人との関係の解明ではなく、「健康」や「生活様式」の違いを明らかにするためのものだったと受け取るだろう。
 そして、何よりも注目すべきことは、「本州人の10%、アイヌの人の7割、沖縄の人の3割」が縄文人の遺伝子を受け継いでいるという、事実を全く伝えていない点にある
 また、疑問が湧いてくる。「また、遺伝子の多様性があまりないことから、縄文人は少人数の集団での生活を約5万年にわたって続けていたと推測された。」という記事である。日経の記事では、「縄文人の祖先となる集団が東アジア大陸に残った集団からわかれた時期が約3万8000年前から1万8000年前である」という。そこからどうして「縄文人は少人数の集団での生活を約5万年にわたって続けていたと推測」できるのだろうか。
 更に、合田記者は、このあと「現在の韓国人や台湾の先住民、フィリピン人に近いという。」と述べている。この部分を読んだ読者はどのように受け止めるのであろうか。おそらく、大多数の読者は、縄文人は、現在の日本人やアイヌの人々とは遺伝子的な関わりがなく、韓国人や台湾の先住民、フィリピン人に近い人たちであった、と受け取るだろう。
 何故、合田記者は、縄文人とアイヌの人々、日本人や沖縄の人々との遺伝子的な繋がりを記事にしようとしなかったのだろうか?なにか、都合の悪いことでもあったのだろうか?
 そして、中国網の「中国の漢民族と共通祖先を持つ」 との記事である。この記事では、「日本の国立科学博物館などの研究チームは13日、古代縄文人の遺伝情報の解析に成功したと発表し、縄文人が中国の漢民族との共通祖先を持つと推測した。」と紹介している。果たして、神沢氏らの研究チームは、「縄文人が中国の漢民族との共通祖先を持つと推測」する研究成果を発表したのであろうか?神沢氏らは「縄文人が大陸の集団からわかれた時期が今から約2万~4万年前とみられることがわかった」と発表したのであって、「縄文人が中国の漢民族と共通祖先を持つ」などとは、一言も述べていない。正確に言えば、モンゴロイドに属する縄文人の集団が、東アジアに住んでいたモンゴロイドの集団からわかれたの時期が約3万8000年前から1万8000年前であることがわかったのであって、その後、大陸に住んでいた集団が、漢人やツングース、韓国朝鮮人、蒙古人などのいくつかの民族集団を形成したのであるが、そんなことは、これまでの研究で分かりきったことであり、今更「中国の漢民族と共通祖先を持つ」と、「漢民族」を強調する意図は一体どこにあるのか?との疑問が湧いてくる。

 さて、最後に「国後島で竪穴式住居跡100軒発見 大半は2300年前 学術交流訪問団」の見出しで配信された、北海道新聞電子版(5月27日)の記事を取り上げてみよう。
 同記事によれば、「国後島を24日から27日まで訪れていた北方四島歴史・文化学術交流訪問団(団長 右代啓視=うしろ・ひろし=北海道博物館研究部長)は、27日午後、根室市内で記者会見し、同島中部オホーツク海側のヤンベツ砂丘遺跡で続縄文文化期などの約100軒の竪穴住居跡を発見したと発表した。」という。
 「大部分が2300年ほど前の続縄文文化期、一部は8~9世紀のオホーツク文化期のものとみられる。」
 「訪問団は26日、同島オホーツク海側南部のオタトミで17~18世紀のものとみられるアイヌ民族のチャシ(とりで)跡も五つ発見した。」
 これが、記事の概要である。
 この記事と、5月13日の記事を合わせて考えると、「アイヌの人々は縄文人の直系の子孫であり、その文化は、縄文文化を受け継いでいる。」と考えるのが、最も自然な考え方であろう。
 
 アイヌは「原日本人」である、と題したこのブログは、今回で一応終了することにしたい。アイヌの人々の文化及び縄文文化との関わりについては、まだまだ、取り上げるべきことが山ほどあるが、他日を期したい。
  


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    『東アジアの古代文化』1993秋・77号、p74

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  『東アジアの古代文化』1993 秋・77号 p21

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   『東アジアの古代文化』1993 秋・77号 p28~29

 今回から、アイヌの代表的な紋様である「モレウ」と呼ばれる渦巻き紋と縄文土器の渦巻き紋の関係について考えていくことにする。
 この問題を考える前に、そもそも「縄文」とは、如何なる紋様なのかが明らかにされなくてはならない。
 八木橋信吉氏の論攷「縄文原体論ー山内清男「縄紋」学の画期とその再読ー」に出会い、雷に打たれたような衝撃を受けたのは、20年以上も前のことだった。
 この論攷で八木橋氏は、まず、山内清男やまのうちすがお(1902~1970)の「回転施文に関する一般理論」の画期的業績について(昭和八年頃ごろには既にほぼ全体像をつかんだといわれる)詳しく紹介している。(p19~p26) ※正直言って、私は八木橋氏の論攷に出会うまで山内清男の名前を知らなかった。
 氏によれば、山内の業績は、第一に「縄の構造に関する一般理論」にあるという。八木橋氏は「縄と縄の記載について」という山内の論文を取り上げ、「考古学という限られた領域を超えて、縄一般について科学的解析をおこなったすぐれた業績である。」(p19)として、高く評価する。更に氏は山内論文が「縄がもつ多様な表現域にわたって、記述の基礎となる普遍性をもち、開かれていることに留意し」八頁にわたって、山内の業績を記述している。
  以下、八木橋氏による山内の業績の概要をごく簡単に紹介しておこう。
 
 そもそも縄というものは、最初は繊維の束であって、この繊維の束が2本または3本撚り合わされてはじめて縄になる。

 <条>
 縄が作られる前の繊維の束、一束を条という。

 <段>
 0段の条ー前もって撚りを加えられずに無理に縄が作られる場合
 1段の縄ー0段の条を2本撚り合わせて縄が作られる場合
 2段の縄ー1段の縄を2本撚り合わせて縄が作られる場合
 3段の縄ー2段の縄を2本撚り合わせて縄が作られる場合
 異段の縄ー同じ段の縄でなく、

 <撚>(より)
 格段の縄には右撚りと左撚りがある。一般的には1段右撚りのものを2本合わせて左撚りし、2段左撚りとなる。段が進むごとに撚りを左右交互に加えると安定した縄ができる。これを「正の撚」という。この他に「反の撚」「合の撚」などがある。

 <条数>
 縄を作るには、最低2本の条数が必要であるが、3・4本のものを撚り合わせることも出来る。

 <撚の方向の符号化>
 以上の点を踏まえ、「縄の構造」は、「段・練り・条数」という三つの要素によって規定できる。段と条は数によって示され、撚りは向きを持っている。これを符号にかえることで、さまざまな縄の形態を記号化して示すことができる。(p20)
 ※八木橋氏は、縄紋を作るときに使われる縄を「縄原体」とよび、これは「しっかり綯(な)われた縄である。」という。「土器の曲面に、しなやかに対応する回転運動は、縄の端から端へ敏感に伝わらないと、整然とした圧痕は描けない。文様の出来不出来は、縄の良否にもかかわっている。」(p20)と述べる。
 
 そして、氏は、山内による記号化を第3段に掲げた写真のように説明する。この図は、「縄紋正撚り」という「縄原体」とその「縄原体」によって作り出される紋様を示したものである。(p21)r,lは、条の右撚りと左撚りを表し、R,Lは右撚りと左撚りの縄を表す。2本の条で作られた単純な正の撚り1段の縄が1と2であり、この「縄原体」の回転によって作られる圧痕が1と2である。この「縄原体」が「3,4」 「5,6」 「7,8」 と複雑になって行くのに対応して紋様もまた複雑になっていくのである。
 八木橋氏は、山内の業績を紹介したあとに次のように述べている。
 「単純な縄原体や絡条体の回転圧痕・側面圧痕による土器文様、あるいは型具の叩打・押捺による印文などは世界的に見られるが」縄文土器にのような「多彩で複雑な原体の回転圧痕による文様は、今のところ、日本の新石器時代にしかみられない特質であると指摘されている」(p26)

 八木橋氏の論攷の凄いところは、山内の業績を再評価しただけでなく、代数幾何学の専門書によりながら、更に考察を進めているところにある。その専門書とは、ヘルマン・ヴァイル『シンメトリー』である。※残念ながら、私は、こうした数学の専門書を眺めただけで頭が凍り付いてしまう。八木橋氏が、縄文土器のシンメトリー(対称性)構造をどのように解明しているのかについては、うまく説明することができない。お許しください。  

 最後に氏の次のような言葉を引用して、ブログを閉じることにしよう。
 「このような縄文人の思惟、心像の道具としての「縄原体」は<秘密の力=霊威>をもった呪具ともなったであろう。呪や霊威に抽象や思惟がないと考えるのは、現代人の慢りにすぎない。縄原体は日常の道具の無意識から立ちあがった霊威である。」(p33)


 


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 『東アジアの古代文化』1995夏・85号、p17

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  『東アジアの古代文化』1995夏・84号、p71

  さて、三内丸山遺跡の中でも有名なのが、「大型掘立柱」の遺構である。今回は、 『東アジアの古代文化』(大和書房)1995夏・84号、に依りながら、この「大型堀立柱」の問題を考えてみよう。
 後藤和民氏は同誌掲載の「縄文時代の特殊遺構について」と題する論攷において、次のような興味深い記述を行っている。
「中期になってから出現する大型堀立柱建物であるが、平面形は長方形で六本柱の高床式の建造物と考えられている。」「柱材はいずれも直径一メートル前後のクリの巨木である。この種の大型堀立柱建物跡は、遺跡内の数カ所から発見されており、その規模や形態や位置が時期ごとに変動しているという。」(p16)後藤氏は、この遺構について、「高さ十メートル前後の上屋を持つ望楼」であったとする有力な説に対して次のように疑問を呈する。「しかし、もし陸奥湾などの遠方を眺望するための施設ならば、各時期ごとに巨大な施設の位置を移したり、規模や形態を変える必要はないはずである。また、穴の形態をみても、直径一メートル、長さ十メートルもの巨木を建てるのは到底無理で、せいぜい二~三メートルの長さなら可能である。むしろ、石川県のチカモリ遺跡や真脇遺跡のようなウッド・サークルに類いする祭祀的な施設とみるべきであろう。」「現在のところ、まだ実証の段階ではないが、いずれにしても、この巨木による堀立柱建物群が一般聚落に伴うべき日常的な施設ではなく、やはり特殊な機能をもった施設であったことだけは否定できない。」(p16)
 
 実は、三内丸山と同時期に栄えた八ヶ岳山麓の縄文中期の遺跡からも、六本柱の遺構が発掘されている。同じく『東アジアの古代文化』84号に掲載された「信州の縄文時代と三内丸山遺跡」と題する論考に於いて、宮坂光昭氏は、長野県八ヶ岳西南麓の縄文遺跡を取り上げ、「巨大な木柱穴列」について、A・B・Cのタイプに分類し、その性格の違いについて述べている。氏が特に注目するのは、八ヶ岳西南麓の縄文中・後期の方形柱穴列の中でもBタイプ即ち「六基の長方形」についてである。
 「Bタイプとした方形柱穴列は、六本柱穴で長方形が多く、縄文中期から後期初頭である。おそらくAタイプとは性格が異なるものと考えたい。」Bタイプは「環状集落の中央部の、土坑、土壙墓の多いいわゆる墓域に発見されている。このことから、葬送に伴う構造物、祖先祭祀の構造物であると考えられる。はっきりいえば祖霊祭祀の柱建て祭りの構造物説である。」として、「諏訪大社の式年造営の御柱祭のような行為」ではないかと推測する。
 ここでは、以上のような後藤氏や宮坂氏の論攷を基に、三内丸山や八ヶ岳山麓の縄文時代の遺跡に共通している「巨大な六本柱の謎」を解き明かしていきたい。
 私が注目したのは、この「六本柱」の「6」という数である。
 『アイヌ民族の宗教と儀礼』久保寺逸彦  は、「アイヌの他界観」(p113)において、次のように記述している。

 「アイヌの信仰に依れば、人が死ねば、その霊ramachihiは、肉体を離脱して、この世ainu-moshirを去って他界に辿り行って、そこで、先祖shinrit(先に死んで他界で暮らす人々を汎称する)だちと一緒に暮らすという。」「アイヌの考える他界は、現世の人の住む世界ainu-moshirの地下にあるので、pokna-moshir(下方の国、死者の国)と呼ばれている。」「アイヌの神聖数sacred numberは6iwanであるため、天界に、6重の天iwann-kanto(或いはその倍の12天)を想定している様に、地下の国も亦、通常6層に分かれる様に考えられている。」
 その6層とは①塵埃が流れ出る川のある国②泥の流れ出る川のある国③黒く濁った川のある国④神のいない国⑤水のない国⑥濡れてじめじめしている国である。
 「通常、死者のいく所は、単にPokna-moshir、Pokna shirと呼ばれ、一種の神の国Kamui-moshirである。」
 久保寺によれば、このPokna-moshirは、仏教の地獄や日本神話の「黄泉の国」のような陰惨汚穢の忌避すべき暗黒界ではない。Kamui-moshir  やainu-moshirと同じ様な「光明世界」で、青い山脈もあれば、川も流れ、樹立も茂り、海も湛え、鳥歌い、獣走り、魚も群れ泳ぐところだと言う

 こうしたアイヌの「他界観」を縄文人の遺跡の中の「六本の柱」に重ねあわせるならば、この六本の柱は、天界の6層の国と地下の6層の国の象徴と考えることができるのである。もちろんこれは一つの仮説に過ぎないのだが・・・。



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 このブログは、~アイヌは「原日本人」である~とい主題で論述を行っている。この「原日本人」とは、端的に言うと、「アイヌは縄文人の直系の子孫である。」ということである。日本人とその文化は、縄文人(アイヌ文化)とその文化を基層とし、稲作を携え日本列島にやってきた弥生人の文化が重なって形成されたものである、との説に立っている。※この説の代表的な論者として梅原猛を挙げることができる。
 そこで、縄文人とアイヌ文化の繋がりについて、考察を進めてみることにしたい。
 さて、縄文時代の代表的な遺跡として誰もが名前をあげるのが、青森県の「三内丸山遺跡」であろう。実はこの「三内」という地名が、アイヌ語に由来するものであるということは、ほとんど知られていない。「三内」がアイヌ語であることを突き止めたのは、アイヌ語地名の研究家である山田秀三である。
 山田は、北海道のアイヌ語地名を調査するだけでなく、東北地方も調査し、アイヌ語の地名を発見し、本にまとめている。※『東北・アイヌ語地名の研究』(草風館)。この本の中で山田は、東北地方のアイヌ語の地名の分布地帯には、明確に南限線が見られると述べている。(第2段の図)
 さて、山田のこの著書によれば、東北地方の北部には、「サンナイ」と呼ばれる地名が少なくとも三カ所にあるという。『東北・アイヌ語地名の研究』「サンナイ地名の謎」p81~p92(第3段の図)
 
 秋田県河辺郡(三内)  秋田県南秋田郡五城目町(山内) 青森市南西部(三内)

 北海道には、2カ所ある。
  後志神恵内(珊内) 手塩苫前郡古丹別川筋(三毛別)

 これらは何れも、アイヌ語の「(増水が)流れ出る・川」という意味なのだそうだ。

 ※なお、山田がアイヌ語地名として青森市の三内を挙げたのは、三内丸山遺跡が発掘され、縄文遺跡として脚光を浴びる三〇年以上も前のことである。
 もちろん、青森市の「三内」の地名がアイヌ語であると分かったとしても、縄文時代の代表的な遺跡である「三内丸山遺跡」とアイヌの文化とを直ちに結びつけるのは、乱暴な話ではある。しかし、縄文文化の謎を解く鍵がアイヌの人々の文化の中に隠されていると考えることは、決して根拠のないことではない。


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 幌尻岳(日高にある幌尻岳とは別の山。十勝幌尻岳とも言う。)

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  東ヌプカウシヌプリ 

   砺波山 手向けの神に 幣奉り 我が乞ひ能麻く

 もう少し、この万葉の和歌にこだわって見よう。砺波山というのは、観光案内のパンフレットを見ると「富山県小矢部市と石川県津幡町との間に位置する倶利伽羅山の古称」とある。加賀と越中を結ぶ「旧北陸道」がこの地を通っており、古くから交通の要所であったという。源氏と平家の「倶利伽羅合戦」の地としても有名である。
 この和歌で注目したいのは、「砺波山」という山を「神」と崇め、幣を奉って祈るという宗教上の慣習が、古代の日本には、あったことである。
 山を神として崇め、幣を奉るというのは、古代の日本に限らず、アイヌの人々の信仰にも共通して見られる。言葉も同じくノミというのであるから、これは、もはや偶然の一致とは言えないと思う。

 ここに例を挙げたのは、吉田巌「『民族学研究』編」(北海道出版企画センター)で、アイヌの故老、「坂下徳二郎氏談話」(大正八年ー当時伏古村に在住ー現在は帯広市と芽室町に編入されている。)から、坂下家の神垣(ヌササン)を東から西へ眺めた図である。※吉田巌(1882~1963)は、教育者でアイヌ研究家。母は二宮尊徳の孫で、叔父の尊親を頼って来道。十勝帯広を中心にアイヌの子どもたちの教育や生活環境の改善に尽力すると共にアイヌの研究に熱心に取り組んだ。

 イナウは全部で6本立てる。つまり、6つの神を奉っている

 ①ポロシリウンカムイ  幌尻岳~帯広市と中札内村の境界にある山。※北海道には、日高と十勝の二つの幌尻岳があり、この「ポロシリウンカムイ」は、十勝にある「幌尻岳」のことである。

 ②コタンコルカムイ   コタン(聚落)を守る神

 ③ニヤシコルカムイ  フクロウの神

 ④チプタチカプカムイ  船を掘る鳥の神(キツツキのことか?)

 ⑤ホロケウカムイ    狼の神

 ⑥ヌプカウシウンカムイ 士幌町と鹿追町の境界にあり、正式には東ヌプカウシヌプリという。士幌町と鹿追町の境界にある山。鹿追町には、西ヌプカウシヌプリがあるが、士幌側からは見えない。

 さて、ここで注目したいのは、6本のイナウのうち2本は「幌尻岳」「ヌプカウシヌプリ」の2つの山に捧げられていることである。写真を見ると分かるように、この2つの山はどちらも山容が堂々としており、広い十勝平野にあって、どの方角からも仰ぎ見ることができる。

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 砺波山 手向けの神に 奴佐(ぬさ)奉り 我が乞ひ禱(の)まく

  今回は、この万葉の和歌にもうたわれている「」(ぬさ)と、アイヌの宗教儀礼に欠かせない「イナウ」との関連を取り上げることにする。
 『時代別国語大辞典 上代編』(三省堂)の「ぬさ【幣・幣帛】」の説明では「神に祈る時に捧げる幣帛。木綿・麻・紙などで作る。」(p553)とある。また、「砺波山」の歌の他にも次のような万葉の和歌が載っている。

 山科の 石田の社(もり)の 皇神(すめかみ)に 奴佐(ぬさ)取り向けて 吾は越え行く

 ありねよし 対馬の渡海(わた)中に 取りむけて

 み幣帛(ぬさ)取り 神の祝(はふり)が いはふ杉原 

 
 これらは、上代(奈良時代まで)の例であるが、平安時代の古今集には、百人一首にも選ばれた菅原道真の有名な歌がある。
 
 このたびは も取りあへず 手向山 紅葉の錦神のまにまに

 アイヌの人々の宗教儀礼にとって、イナウは重要な役割を果たす。このイナウと幣は、深い関係がある。※北海道釧路市には観光スポットとして「幣舞橋」があるが、この「幣舞」はnusa-o-mayつまり、幣を奉っているところという意味である。アイヌ語では、イナウを立てた「祭壇」を「ヌサ・サン」と呼んでいる。
 では、イナウとはどんな祭具なのだろうか。アイヌのイナウと幣との大きな違いは、イナウは木を削って作るが、幣は、忌串(いぐし)に布や紙を挟んで作る。※但し、日本各地には、アイヌのイナウと同様に、木を削った削り花を神棚に飾る風習が残っている。
 アイヌの研究家で知られる久保寺逸彦は、『アイヌの宗教と儀礼』(草風館)では、イナウについて次のように記している。
 アイヌが「すべての宗教的儀礼を営む時には、木弊inau(※イナウ)を削らなければならぬが、男子の経験に富み、かかる事に堪能な長老が何人か選ばれてこれにあたる。その材料となる柳」「ミズ木」「等は前々から伐られて適当な乾燥状態にあるものである。生ものや、乾れすぎたものは、削っても削り掛けkike(※キケ)がうまく出来ない。拙劣な削り方のinauをつくることは、神に対して不虔であるばかりでなく、その人にとっても不名誉極まりないこととされる。inauを掻削る小刀をinauke-makirというが、北海道ではその尖端にmakir-eushpeと称する木片をつけて削る。その為、削り花は美しい波状にcurlしてゆく。」(p46)
 久保寺によれば、削られるイナウの種類は、催される祭祀や奉られる神々によって異なっているという。二段目の写真(p47)のイナウは、左から(氏神農業神・森の立樹神・水の神)、中央は(狩猟の神)、右側は(火の姥神・祖霊祭祀)にそれぞれ用いられるという。
 実際に、どのように奉られていたかというと、写真の三段目は、日高の沙流川流域のアイヌが氏神を奉った祭壇である。(p49)写真の四段目は、沙流アイヌの建築儀礼の中の饗宴の場面の図(p293)である。戸外に、イナウが立てられ、祭壇(nusan-san)が設けられていることが分かる。
 
 

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 前回のブログでは、日本語の神がアイヌ語と共通の「カムイ」という言葉に起源を持っていたと述べた。今回は、アイヌ語で日本語の「祈る」を意味する「イノミ」を取り上げてみよう。
  「イノミ」というアイヌ語は、日本語の「祈る」という言葉と同じ意味を表す。アイヌ語には、この「イノミ」の「イ」をとって単に「ノミ」と言うときもある。同じく祈るという意味である。実は、古代の日本語にも、「祈る」と同じ意味を表す言葉で「のむ」という言葉があったのである。『時代別国語大辞典 上代編』(p368)には、「のむ」という言葉が掲載され、「祈る。頭を下げて願い頼む。」という解説がなされている。また、万葉集の歌がいくつか例示されている。
                                                
砺波(トナミ)山手向けの神に幣(ヌサ)奉(マツ)り我が乞ひ能麻(ノマ)く
                
布施置きて吾は乞ひ能武(ノム)
                                    
天地の神をぞ吾が祈(ノム)
         
  最初にあげた「砺波山・・・」の歌は、正に古代の日本人とアイヌの人々の神々への「祈り」のあり方が共通していたことを示すものである。※この点については、次回のブログで詳しく述べていきたい。
 ここでは、アイヌ語の「イノミ」と日本語の「祈る」または古代日本語の「のむ」との関係について、考察を進めていくことにしよう。
 この問題を考える上で参考になるのが『古代語を読む』『古代語誌 古代語を読むⅡ』(桜楓社)である。
 『古代語を読む』(桜楓社)には、古代日本語「のる」についてとりあげられている。(吉田修作氏執筆)この「のる」については、次のような記述がある。

 のるといのる・のむ  <いのる>は語源的には「斎(い)+のる」とされ、「本来は<のる>同様に、シャーマニックな表現行為であった。」(p137)<のむ>は、「かなり具体的な儀礼行為を伴っていた。「<こひのむ>などの複合語で用いられることが多く、記紀で「祈」の字をノム、コフ、イノル、と訓むことから、<のむ>と<こふ>は通ずる面を持っていたことがわかる。」「<のる>は<いのる><のむ>とともに、神に関する呪的な表現行為であったことは疑いない。」
 アイヌ語では、<イノミ>のように<ノミ>に接頭語の<イ>が付けられて使われるが、<ノミ>単独でも同じ意味を表す。それでは、日本語やアイヌ語に共通すると思われる接頭語の<い>とは、何を意味するのだろうか。
 『時代別国語大辞典 上代編』の「い」の言葉は、次のように解説されている。
 「接頭語。斎藤・忌の意。ユとも。おもに神事に関する名詞について、斎み清めた、神聖なものであることをあらわす。」(p65)
 このことから、神あるいは霊などを直接表現するのではなく、間接的に指す言葉として、使われたものと考えられる。<忌む・斎む>などの動詞も<い>の派生形と考えられるのである。



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 私は、前回のブログで、奈良時代までの万葉仮名には、二種類の使い分けが存在し、その違いは発音に違いがあったのではないか、とする橋本進吉の講演論文を紹介した。
 さて、私がこのブログで立証しようとするのは「日本語の<神>は、古代に遡るとアイヌ語と同様に<カムイ>と発音していた。」という仮説である。では、この仮説をどのように立証していったら良いのだろうか。
 まずは、日本語の<神>とアイヌ語の<カムイ>を2つの音に分けて見よう。

   神→ka-mi     カムイ→ka-muy   

 前回のブログで挙げた『時代別国語大辞典 上代編』には、「か【神・雷】」(p219)とあり、「み」の左側に線が引いてある。これに対して、「かみ【髪】」「かみ【上】」「かみ【帥・守・頭】」(p218~219)の単語の「み」には、右側に線が引いてある。
 これが何を意味するかというと、奈良時代には、神の「み」は、髪、上、守などの「み」と違った種類の仮名遣いがされていたということを示している。つまり、神の「み」は、乙類の仮名が使われており、髪、上、守などの「み」は甲類の仮名が使われていたということを意味している。 
 ここから何が分かるかというと、神という言葉は、「上にあるから神という」などと俗説が成り立たたず、上や守などの言葉とは、全く別の起源を持っているということが明確になってくる。
 ※日本語の神のミが、万葉仮名の乙類で表記され、アイヌ語同様kamuiと発音されていたという仮説は、大野晋も主張していた。しかし、大野の場合、日本語=ドラヴィダ語起源説も禍してか、この仮説を立証するに至らなかった。
 さて、『時代別国語大辞典 上代編』によれば、神のミには乙類の万葉仮名で表記されているという。その乙類万葉仮名とは、次の漢字である。

      未 味 尾 微 実 身 箕 

 これらの漢字の中で私が注目するのは「箕」(み)である。というのは、日本の農家で古くから使われている民具であり、穀物の殻と実を分けるための道具である。この「箕」について、日本各地の分布状況を調査し、地図上に表したのが、下野敏見氏である。『ヤマト・琉球民俗の比較研究』(法政大学出版局) 

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    下野敏見著『ヤマト・琉球民俗の比較研究』(p116)

 下野氏作成の分布図に注目していただきたい。箕を「ムイ」という名前で呼ぶ地域は、北のアイヌと南の沖縄や宮古島に限られている。日本の殆どの地域は箕を「ミ」と言っている。
 このことから次のようなことが類推される。即ち、かつて、日本の本州・四国・九州では、箕を「ムイ」と呼んでいたが、やがて「ミ」と呼ぶようになった。しかし、北のアイヌと南の沖縄には、そうした変化は伝わらず、「ムイ」という言葉が残った、と考えるのが自然である。
 このことから、奈良時代の日本語の神の「ミ」の字に乙類の「箕」の漢字が使われていたということは、神の「ミ」は「ムイ」と発音されていたという結論が導きだされるのである。つまり、奈良時代まで、神という言葉は、アイヌ語と同様に「カムイ」と発音されていたということになる。このことから、「神」の下に言葉が続く場合、「カミ○○」ではなく、「カム○○」と発音されることも合理的に説明できるのである。

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  このブログのタイトルに掲げたアイヌは「原日本人」であるという、この「原日本人」というのは、端的に言えば、アイヌの人々は、縄文人の直系の子孫であるという意味である。尤も、縄文人といえども、アジア大陸の各地から日本列島に渡ってきた、多種多様な人々であり、言葉や風習、信仰もまた様々であったことを否定するものではない。縄文人は、日本各地に、「部族ー氏族」ごとの集団をつくって暮らしていたが、アイヌは、そうした「部族ー氏族」集団の一つであったと推測される。やがて、大陸から稲作を携えた渡来人がやってきて、縄文人は、弥生人と弥生文化に融合されるが、北海道の縄文人であるアイヌの人々は、縄文文化を受け継ぎ、一部はオホーツク人の文化を取り入れ、今日に至っている。だが、日本人の文化の基層には、縄文文化があることは否定できない。その縄文文化を知るためには、まずは、アイヌ文化を知らなければならない
 アイヌ文化を知るということは、何も踊りや食べ物、文様といった表面に表れたものだけを取り上げただけでは分からない。何故ならば、アイヌ文化の中心は、アイヌの神=「霊」の世界、即ち信仰にあるからである
 この「信仰」を最も良く知ることができるのが、言葉である。今日、言語学者の多くは、アイヌ語と日本語は、全く異なった系統の言語とみなされている。確かに、日本語とアイヌ語では、文法においても、単語においても大きく隔たっているように思える。しかし、よく比較してみると、アイヌ語と日本語の間には、偶然の一致として片付けることができない共通の言葉を見つけることができる
 これから取り上げるアイヌ語の<カム>と日本語の<神>は、そうした言葉の最たるものである。アイヌ語のカム  と日本語の  とは、誰が考えても同じ起源を持つ言葉だと思うだろう。これは、どう考えたら良いのだろうか。
 まず、思いつくのは、アイヌ語の<カムイ> は、日本語の<神>の借用語ではないかというものである。つまり、日本語のカミがアイヌ語に取り入れられてカム となったという説である。しかし、アイヌの人々にとって、カムのような最も大切な言葉を安易に借用などするだろうか?
 次に考えつくのが、その反対である。日本語のカミは、アイヌ語のカムからの借用語であったという説である。しかし、日本語のカミは、古代からある言葉で、到底アイヌ語からの借用語などであったとは、考えられないのである。
 そこで、第三の説が浮上する。日本語のカミもアイヌ語のカム も、共に共通の言葉を祖先に持つ時代があって、その共通語の中に、カミあるいはカム という言葉があった、と考えるのが最も自然な考え方である。つまり、共通語とは即ち「縄文語」であったのではないか、ということが考えられるのである。
 ここからは、この説に沿って、問題を考えていくことにする。しかし、この説に立つにしても、アイヌ語と日本語の共通の祖先である「縄文語」は、果たして、カミだったのかカムイ だったのかという、問題が残るのである。
 この問題を解く鍵として挙げたのが、冒頭に掲げた『時代別国語大辞典 上代編』(三省堂)と橋本進吉の『古代国語の音韻について』と題する講演論文である。
 この二著について、簡単に説明しておこう。まず『時代別国語大辞典 上代編』は、国語を時代別に採り上げた辞書であり、「上代編」は、奈良時代までの言葉を扱って解説している。※橋本進吉は、山田孝雄、時枝誠記と共に日本の三大国語学者である。残念なことに、「国語学」が「日本語学」とやらに変えられてしまったようだが。
 まず、橋本進吉の「古代国語の音韻について」という論文(講義)について簡単に説明しておこう。※本来なら、『古代国語の音韻について』(岩波文庫)を参照すべきであるが、どこかに紛失してしまったので、インターネットで公開されている「青空文庫」を参照文献として挙げておいた。
 橋本進吉がここで述べているのは、万葉仮名の仮名遣いについてである。万葉仮名というのは、日本語の表記として「仮名文字」が発明される前の時代に、漢字を仮名のように使って日本語のあ、い、う、え、お・・・を表記したものである。仮名に使われた漢字は、同じ<あ>の音の表記に八個、<い>の音の表記に一六個・・・という具合に、沢山の漢字が使われている。橋本は、奈良時代の書物「万葉集」や「日本書紀」などで使われた万葉仮名には、「キ、ヒ、ミ、ケ、ヘ、メ、コ、ソ、ト、ノ、ヨ、ロ、モ」の一三の仮名が二種類に使い分けられているという。例えば、キという音は、二つの種類にきっぱりと分けて使われているという。「雪」のキには「伎」「企」「枳」などのどれを使ってもよく、「月」のキには「紀」「奇」などどれを使ってもよい。しかし「月」のキには「伎」「企」「枳」などは用いず、「雪」のキには「紀」「奇」などは用いない。
 こうした、万葉仮名の二種類の使い方というのは、橋本進吉が最初に発見したのではなく、江戸時代の国学者である本居宣長の弟子、石塚龍麿が発見し、橋本が再発見したものである。万葉仮名の二種類の使い分けの区別を反映した辞典が、『時代別国語大辞典 上代編』なのである。
 橋本進吉は、一三の万葉仮名を甲類、乙類と二つに分類している。但し、ここで甲類、乙類というのは、単なる記号であって、甲類が乙類より優れているという意味で用いているのではない点に留意されたい。
 では、一三の仮名の二種類は、なぜ使い分けられているのかというと、橋本は、当時の音、つまり発音の違いではないかと言うのである。しかし、この二種類の発音が具体的にどのように違っていたのかを橋本は述べていないのである。そして、今日に至るも、奈良時代の日本人が、一三の仮名に相当する音をどのように発音していたのかについての定説が確立されるに至ってはいないのである

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  明治政府が制定した、「旧土人保護法」は、「土人」という言葉を取り上げて、差別的だという者がいるが、「土人」そのものは、昔からその土地に住んでいる「土着人」を意味する言葉であった。
 ※例えば『太平洋の民族=政治学』(平野義太郎・清野謙次 合著)においては、「土人」という言葉を使っているが、差別的な意味で使われてはいない。
 また、この法律は、アイヌの人々を日本国民として迎え入れ、土地所有を認め、日本人と同様の教育を受けられるようにした。(このことを何か否定的な意味合いを込めて同化という言葉が使われるが、適当ではない。アイヌの人々から土地を奪ったのは、明治政府ではなく、GHQの農地改革である。)
 しかしながら、明治政府がアイヌの人々に対するこのような「日本国民化」政策は、必ずしも善意によって行われたということを意味するのではない。当時、アイヌの人々は、北海道だけではなく、千島列島や樺太にも多く住んでおり、ロシアとの領土交渉を有利に進めるための政策の一環でもあったのである。また。本州から入植した開拓民の中には、アイヌの人々に対する差別意識も少なからずあったし、現在も残念ながら差別意識は残っている。こうした「差別」に怯えたアイヌの人々の多くは、自らの言葉や文化を捨て去り、アイヌとしての出自を隠し、日本人として生きようとつとめてきた。※差別と偏見を恐れたアイヌの人々の中には、北海道を離れ、関東地方に移り住んでいる方もいたと聞いている。
 一方、こうした差別意識を持つ和人の中にも、アイヌの人々の文化や習俗に興味と関心を懐き、記録を残そうと努めてきた研究者も少なくない。また、アイヌの人々に心を寄せ、その生活の支援に取り組んできた人も少なからず存在してきた。
 だが、人類学者の間では、戦前から戦後の一時期まで、「アイヌ白人説」が半ば定説となっていたこともあって、アイヌは日本人とはかけ離れた人々と見なされ、その言葉も日本語とは異なった系統不明のものとされてきた。しかし、近年、遺伝子学の進歩から、アイヌは歴とした「モンゴロイド」であることが明らかにされたのである。但し、アイヌは、寒冷地に適応した「北方モンゴロイド」ではなく、「南方系モンゴロイド」であるとの研究が定説化している。
 冒頭に掲げたのは、北海道釧路市生まれのアイヌの長老、山本多助エカシの『イタ カシカムイ・・・アイヌ語の世界・・・』(北海大学図書刊行会)と題する著書である。この著書のまえがきで山本エカシは、次のように述べている。

 天皇制華やかであった時代の日本の学者はアイヌ民族とアイヌ語は、これ一切「謎」であるとしてさじを投げ、顧みなかった。日本語の原点がアイヌ語のうちにあることも気づかずにである。原日本人はアイヌ民族であるということも気づかないままにである。(p2)

 私は、山本エカシの「原日本人はアイヌ民族である」との主張に賛成する。但しその「歴史観」には同意できない。

 2019年の通常国会では、アイヌを「先住民族」と規定した「アイヌ新法」が成立する見透しと報道されている。だが、危ういのは、この「先住民族」という定義づけである。ここから連想されるのは、新大陸に入植した白人が一方的に少数民族である「インディオ」を虐殺し、土地を奪ったり、居留地に押し込めたりしたというイメージしかうかばない。実際に、「欧米諸国が先住民族に認めている土地や漁業権を認めろ。」だの「過去の謝罪と補償を求めろ」だの、過激な主張をする「集団」が活動している。これらの「活動家集団」は、本当にアイヌの人々の文化に魅せられ、真摯に学ぼうというよりも、「近代日本の負の歴史」のイデオロギー的正義を証明する手段としてアイヌ運動を利用しているかに思える。
 私には、苦い思い出がある。二十年ほど前の私は、北海道のある「アイヌ文化」を研究するサークルに所属し、アイヌ文化を学ぶ集いに参加したり、拙い研究ではあるが会誌に何度か発表させていただいていた。
 ところが、あるとき、会員の中から私を「右翼」だとして攻撃するような動きに出た方がいた。確かにこの会は、左翼的な考えの方が大半を占めていたが、そうした個々人の思想を乗りこえて、アイヌの人々の文化と暮らしに魅力を感じ、謙虚に学ぼうという一点において結びついていたと思っていた。こうしたこともあって私は、程なくこのサークルを退会し、アイヌ文化の研究もやめてしまった。お宝の知里眞志保の著作集も古書店に売り飛ばしてしまった。今では後悔している。

 このような「活動家」によるアイヌの政治的・思想的引きまわしが、アイヌ文化を真摯に学ぼうとする研究者を遠ざけ、アイヌの人々とその文化から日本人(和人)を遠ざけてしまうのである。
 私は「アイヌは原日本人である。」との観点から、細やかで拙い研究であるが、このブログで紹介していきたい。アイヌの人々に誇りを取り戻すことは、大切であるが、それは国連まで押しかけていって日本の悪辣さを喧伝したり、インディオと同様に少数民族の権利を認めさせたりすることではない。迂遠なようであるが、「アイヌの人々とその文化こそは縄文文化の正当な後継者であり、琉球・奄美の人々と共に日本文化の土台をなすものである。」という認識こそが、大切なのだということを強く主張したい。
 
 


 

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